普段のズボン(その2) 歴史を感じる
「世の中スイスイ(粋々)、お茶漬けサクサク…」志ん生、志ん朝の噺に出て来るフレーズ。肩の力が抜けてあんにゃもんにゃです。~長い散歩の途中~
昔、漢(おとこ)ありけり
昨日、上野に行った。
西郷南洲公の銅像を後ろから撮ってみた。
鹿児島の方を向いている。

西郷公
亀戸天神
後藤又兵衛
昨年(2014年)のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で初めて知ったのだが
後藤又兵衛は黒田家の家来だった。
官兵衛が有岡城に幽閉されていた時に又兵衛の伯父が従順でなかったので一族追放された。
その後、改めて黒田家の家来に復帰。
官兵衛の息子長政の家来に回された。
又兵衛自身は官兵衛の家来でいたかったが命令だから仕方がない。
長政は又兵衛より八歳くらい年下。
長政がなかなか又兵衛の進言を聞かないので不満が溜って行った。
「おれの言う事を聞かねえ坊ちゃまだなぁまったくよぉ」

官兵衛死去後、義理は済んだと長政を見限って黒田家を出奔する。
その知勇を惜しんで各大名から誘いの声が掛かるが
長政から「奉公構(ほうこうかまい)」の回状が出て再就職が出来ず浪人となる。
やくざの「破門状」のようなもので他家に就職出来ない。

時あたかも大阪の陣が出来(しゅったい)し、豊臣方に合流する。
これで長政とは敵味方に分かれた。
やっと自分の思う通りの事が出来る。
侍としての“死に場所”を探していたのだろう。
同じく“死に場所”を探して時期を待っていた真田幸村も大坂城に入る。
幸村も九度山蟄居のまま朽ち果てるのは口惜しい思いを持ち続けていた。
かくして二人とも夏の陣で思いを遂げた。

来年(2016年)のNHK大河ドラマが『真田丸』。
冬の陣の講和で外堀も内堀も埋められて丸裸になった大坂城。
世間知らずの淀君側は、百戦錬磨で老練な家康に騙された。
秀吉が造った難攻不落の大坂城も堀が無ければハリボテ同然だ。

もう籠城は無理だから野戦やむなしと幸村が進言しても
淀君は城を過大評価し消極策しか出て来ない。
しかも城方は幸村が本当に信用出来るのかと疑心暗鬼。
幸村の兄の真田信之は徳川方におり家康の養女を嫁にしている。
当時の常道として家康は政略結婚のために実子や養女をたくさん用意している。
せめてもの善後策として急遽大坂城の飛び地として出城の「真田丸」を造って
攻撃のかなりの部分を幸村が一身に受け止める事にする。
ドラマ『真田丸』が楽しみだが脚本が三谷幸喜なのでおちゃらけにならないと良いのだが。

さてあくまで俗説だがこの夏の陣の乱戦中に家康の本陣が攻められ
家康が輿で逃げる途中に後藤又兵衛の槍で輿ごと突き通され、
安全な所まで逃げ切って輿を開けたら家康は既に事切れていた説。
この事はあくまで秘され影武者が立てられた。
急いで戦後処理をして、体制を整えて安定させてから
影武者を始末して家康が公に死んだ事になった。
夏の陣から“家康の死”まで1年経っていない。
遺骸を一時的に隠した堺市の南宗寺(なんしゅうじ)は
江戸時代を通して幕府により庇護された。
じゃ、鯛の天ぷらに当ったというのは影武者の方かいな。
知り過ぎた影武者を消すために毒を盛ったか。
いや俗説、俗説。
秀吉の失敗
歴史上の人々のあれこれを想像して
「ああでもない、こうでもない」と思いをめぐらすのは甚だ興味深い。
先人の研究家や作家たちが営々と築いて来た考察の海から、
“風雲児秀吉のつまずき”について自分なりに拾い上げて列挙してみる。
(※いろいろな見方のひとつであり、異説も多々ある事は承知しています)



(1)~信長という先行モデルがいなくなった~

秀吉は天下人になるまでは、信長とは別の意味の不世出の異才だったが、
いざ天下人になってしまうと、先行モデルが無いまま停滞してしまった。
当時世界でも有数の勇壮華麗だった大坂城や聚楽第など
建築に対する非凡さなどを含めて、
あれよあれよと天下人に駆け上がる過程では輝いていたのだが…。
攻めのタイプであったが守りのタイプではなかった。
家康のような盤石の体制を作り上げる事も出来ず淀の色香に迷った。
朝鮮出兵なども、深い考えも無く行動を起こした。
信長が見た地球規模の壮大な夢を、ただカタチだけ真似をしただけだ。



(2)~三成を重用し過ぎたのが裏目~

石田三成は主人である秀吉に対する“忠義”だけの人。
忠義が過ぎて却って秀吉自身だけでなく豊臣の家を潰してしまった。
人の器量で見ると秘書課長クラス。
課長の三成が社長の秀吉に、各部長たちのあることないことを吹き込んでいるのを現場の百戦錬磨の部長たちは苦々しく思っている。
朝鮮の戦役でも部長たちが寒さと疲労で困憊しているのに
国内の秀吉の間近でぬくぬくと勝手な事を言っている。
特に加藤清正、福島正則、黒田長政(官兵衛の嫡男)は怒っている。
この三人は“三成憎し”で怒髪天を抜く思いだったから、
秀吉の子飼いにもかかわらず家康にその感情を利用された。
かくして豊臣恩顧の荒大名たちが徳川方に巧妙に取り込まれた。
そうでなければ秀吉の忘れ形見の秀頼に弓を引くような図式が見えない筈がない。
将棋と同じで相手の飛車角のような大駒を自分の手駒にして意のままに使う家康の老練。
天下分け目の関ヶ原合戦も豊臣の諸将を競わせてたった一日で勝った。
徳川主力本隊を預かったわが子の秀忠隊は中山道経由で駆けつける筈だったが、
信州上田の真田親子に手こずって肝心の関ヶ原合戦に間に合わなかった。
大遅刻の大失態。家来の手前もあって家康は大激怒。
勝ったから良かったようなものの、もし負けていたら…、
家康の背筋を冷たい汗が流れた。
利根川の増水で家康の指示がうまく届かなかったから仕方が無かったという説もあるが。
一度レールが敷かれたら荒大名たちも何がなんだか分からないまま家康の手駒のまま。
関ヶ原だけではなく、それから14年後の大坂の陣でも同じ運用を継承。
そのまま徳川方の中で家の存続を図るしか方策が無くなった。



(3)~淀君(お茶々)に耽溺して正室を蔑(ないがし)ろにした~

先にも書いたように天下人に上り詰めるまでの秀吉は
明朗闊達で聡明で人間的魅力に富んでいた。
“人たらし”で座持ちが良く、周囲を明るくしファンを増やしていった。
その非凡な人が、何でも思い通りに手に入るようになると、
“生い立ち”のコンプレックスが頭をもたげて来る。
高貴な人への憧れが押さえられない。
主人信長の妹で手の届かない存在だった別嬪のお市。
お市は夫である柴田勝家と共に越前北ノ庄城で自害して果てた。
娘たち三人は落ちる城から救い出されてその長女がお茶々。
言わば“お嬢”である。母ゆずりの別嬪だった。
秀吉はあの手この手で側室にした。
正室の“おね”は世継ぎを得るためとは言え、我慢を強いられた。
どんどん変わって行く秀吉にもがっかりしただろう。
いつの頃からかもう豊臣の世をあきらめた。
大きな時代のうねりを感じ、徳川の世になるのが避けられない事を悟った。
“おね”の動向・意向は少なからぬ影響力を持っていた。
秀吉死後、“淀派”とおねの“政所派”が形を現わして来た。
これを淀君一派は軽く見ていたのではないか。
“おね”がわが子同然に可愛がった加藤清正、福島正則、黒田長政らを徳川方にそれとなく誘導した。
当然家康は家康で“おね”を優遇して手を回していた。



(4)~一国の政(まつりごと)において“大きな絵を描く”才覚では、秀吉より家康はひと回りもふた回りも上~

戦国の世を終わらせて二百数十年の太平の世をつくったのは家康のもたらした功績。
ただし平和は時計を止める副作用もあるから、
ペリーの黒船来航で外の世界に決定的に遅れを取った事を知る事になる。
ガラパゴス化。
平和という概念に絶対は無く相対的事象に過ぎないとは人類って一体なんざんしょ。
物事はことごとく二律背反。



(5)~秀頼は本当に秀吉の子か?~

関ヶ原合戦の後、家康は豊臣家を一大名として残してもいいかなと思っていた。
ところがある時久し振りに秀頼に対面して
成長して大男(180cmくらい)になっていたのを見て仰天する。
会話をして利発さも感じる。
これはまずい。
こいつを核にして豊臣の残党が集結すると厄介な事になる。
早く潰さねばならない。
「しかしこいつは本当に秀吉の子か?」と家康も疑問に思ったのではないか。
秀吉は猿とか禿げ鼠とか言われた貧相な小男だった。
正室の“おね”にはもちろん、他の側室たちにも子が出来ない。
秀吉には子を生む能力が無かったのではないか。
ところが淀との間に二子出来た。第一子は幼児の時に死亡。
途中もう出来ないと諦め、甥の秀次を関白にした。
その後に第二子の秀頼が生まれたので今度は秀次が邪魔になった。
謀反の疑いを掛けて凄惨な一族皆殺しにした。
これは後々の問題を懸念して小賢しい三成の入れ知恵かも知れん。
秀吉本人も、秀頼がうすうす自分の子ではないと感じていたかも知れない。
いやあるいははっきり理解していたのかも…。
それでも体面が保たれればそれでいいと割り切っていたのか。
あるいは目が曇っていて冷静さが無くなっていたか。
しかもそれらは諸将の間にも密かに噂がささやかれていたかも知れない。
だからこそ大坂の陣で豊臣恩顧の大名たちが家康側の手足になって
主筋を攻めるのにあまり苦しまなかったのではないか。
家康陣営も積極的に風評を流したか。



(6)~弟の秀長が比較的早く病没、ひと月後に利休には死を命じる~

信頼できる片腕の秀長がもう少し長く生きて秀吉を補佐していれば
秀吉はもう少しまともな晩年になっただろう。
「表向き(政治)の事は秀長に、奥向きの事は利休に」という
受持ち分担をしていて一時期うまく機能していた。
秀長は父違いの弟だが実直で温厚な性格で諸大名たちの評判も良かった。
次にまた豊臣政権の重要な支柱でもあった利休との決裂。
金ピカ好きで派手好みの秀吉。渋好みの利休とはいつかぶつかる運命だった。
誇り高く我を通す利休の巍然とした芸術家精神。
性格の違いは埋めようが無い。
しかし死を命じておいてつまり利休がいなくなって、
結果的に一番寂しい思いをしたのは秀吉だった。
周囲から見る秀吉に対する求心力がどんどん失われて行った。



(7)~信頼のナンバー2を作れなかった~

これは仕方が無いかも知れないが“血筋主義”を脱却出来なかった。
現代の国家でも企業でも血の繋がった人に
バトンタッチする例が少なくない事をわれわれは良く知っている。
血筋外の“ナンバー2”を育てるという事は
その人が取って代わって新しい天下を作るという事で
元の血筋は零落するか根絶やしにされる恐れがあるので踏み切れない。
どうしても血筋にすがってしまう。
有能な黒田官兵衛や蒲生氏郷などはその力量ゆえに疎まれて遠ざけられた。
領国を福岡や会津と京大坂から離された。
徳川家康だけは潰せないほどの存在になってしまっていた。
秀吉は織田信雄・徳川家康連合軍と小牧・長久手の戦いをしたが
苦戦してグズグズ講和に逃げた。
以後家康に“苦手意識”を持った。
トラウマになり家康を腫れ物のように扱った。
しかも家康は一応臣従のカタチを崩さないのでインネンを付けられない。
せいぜい三河駿河から江戸という少し遠隔地に移封したのが精一杯。
結局、家康は秀吉が存命中は臣従のカタチを崩さない。
辛抱強く時機到来(秀吉の死)を待っていた。
最終的に家康というナンバー2に乗っ取られてしまった事になる。
間宮林蔵
先日、東京都現代美術館に特別展『ミッション[宇宙×芸術]』を見に行った。
見終わって近辺を散策しながら駅に向かう途中、“間宮林蔵の墓”を発見した。
江東区平野2丁目。
予期せぬ出会いだったので少し呆然となった。

間宮林蔵という人はワタシにとって結構見上げるような人。
先人の苦労が如何ばかりだったかと思いを馳せる。

ま、もちろん純粋な冒険家ではない。
農民の出だが技術職として幕臣となる。
主任務の測量以外にも北方の防衛のための情報活動も重要な任務となった。
対ロシア、対清国。

間宮林蔵 比較的新しく感じるのは、元の墓石は3月10日の東京大空襲で破損したので戦後建て直されたから。



傍らに江東区教育委員会が立てた説明板があった。
そのまま引き写す。



間宮林蔵は、安永9年(1780、一説に安永4年)、常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村に生まれ、天保15(1844)年に深川蛤町の家で没しました。
名は倫宋(ともむね)といい、伊能忠敬に測量を学び、寛永12(1800)年に幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷(北海道)をはじめとする北地探検と測量に従事しました。
文化5(1808)年、幕命により松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を探検した林蔵は翌年7月2日単身樺太からシベリアへ渡って沿海州に入り、黒竜江(アムール川)をさかのぼりデレンに達しました。この15ヵ月間におよぶ探検で、樺太が島であることが明らかにとなりました。
林蔵は後に間宮海峡と命名される海峡を欧州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名となりました。
平成2年2月1日

島の法則
島嶼部と近接する大陸部に生息する同種動物の体格比較。
もちろん法則には例外が付き物であり、
明確に当てはまらない例やむしろ逆ではないかという例もある。
それでもなお概略としてその傾向があるであろうという本筋は否定できない。

『大型の動物の場合は、その中でも小さな個体の方が
代謝量の減少や性成熟が早いなどの点で島嶼地域では生存と繁殖に有利である。
そのため体格が縮小するような選択圧が働くと考えられる。
小さな動物では捕食者が少ないことで捕食圧が減り、捕食者の目を逃れるための
小さな体を維持する必要がなくなる』(ウィキペディア)
つまり“島では大型動物は小さくなり、小型動物は大きくなる”という事。

例えば、大陸の象は大きく、島の象は小さい。
大陸のネズミは小さく、島のネズミは大きい。

1964年にフォスターによって『島嶼における哺乳動物の進化』として発表され、
さらに1978年にウィルソンらによって拡張された『島嶼生物学の法則』だそうだ。
この法則の事は生物学者本川達雄氏の『ゾウの時間ネズミの時間』の本で初めて知った。

ここまでは科学分野の話。
ここからはワタシの想像の話。

この法則は身体のサイズ以外にも、
例えばヒトあるいは民族の性格にも似たような事が言えるのではないか。
もちろん例外もあるだろうし異論もあるだろうが。


<島の人々のメンタルについて>
さて日本人である。

当初日本列島には1万年以上前から狩猟・採集文化の縄文人が広く住んでいた。
そこへ紀元前数百年くらい前から農耕文化を持つ弥生人が流入して来た。
ここらへんは歴史の教科書で勉強した。
文化程度の差は武器の差でもあり、後から入って来た弥生人たちが縄文人を駆逐し始めた。
もちろん広範囲で混血もなされただろう。
住み易い場所は弥生人及び混血弥生人が占拠し、純粋な縄文人たちは
条件の悪い辺境や山の上にじりじり後退せざるを得なかった。
世界各地で同じような事が繰り返されただろう。
ここらへん細かく言えば諸説あるだろうけどとりあえず大筋で捉えて下さい。

それから2千数百年、
農耕を主体にした社会が続いたのはわれわれが知っている通りである。
狭い限られた土地で長い期間農耕社会が続いて来た。
それに付随するすべての“ありよう”が現日本人の血となり肉となり染み付いた。

農耕は季節的で集約的な作業であり、皆が一斉に同じ作業をする事が必要である。
農耕社会に変わり者の居場所はない。
突出した才能・異能の人の居場所はない。
弾き出されるだけだ。
事なかれ主義、長い物には巻かれろが処世術の主流と成らざるを得ない。
目立ってはいけない。出る杭は打たれる。
その替り狩猟社会に比べ食生活は安定した。
回りは海であり、他民族からの脅威・侵蝕は極めて稀であった。
民族としての資質・形質は純化・均一化する。
他人を押しのけても天下を取るという意識は少数の特別の人しか持たない。

一方大陸では常に脅威が存在する。
様々な文化が拮抗し重なりぶつかり合う。
その分、異文化との交流や競合が生まれ文化発展も早い。
王朝の興亡が繰り返され、裏切り、皆殺しも頻繁にあっただろう。
環境が影響を及ぼし、感情の起伏も激しく猛々しくもなる。
自分以外あるいは血の繋がった仲間以外は基本的に信用出来ない。
「オレがオレが」と主張しないと誰にも認められない。
認められなければ浮かび上がれない。
競争が激しい。
途轍もない巨人や天才、異才が生まれる素地がある。


さてサッカーである。
こういう風土で育ったわが国では噛みつき兄ちゃんも出て来ないし、
ゴリゴリ押してくるロッベンも出て来ない。
ミドルシュートをビュンと決めるメッシもネイマールも出て来ない。
おとなしい草食系、さわやか系で
遠慮してシュートも打てないようなサッカーしか出来ない。
一番突出してもせいぜい本田レベルである。
シュートをして点を取るのが本来なのにそれを忘れて
カッコいいパスをするのが究極の目標のような、
歌を忘れたカナリアのようなサッカー。

島国で、和をもって尊しとなす農耕民族のわが国に
こすからい、本当の意味の無我夢中の、獰猛なサッカー…、
目の前の獲物を倒さないと妻子や村中が飢え死にするというような、
切迫状況のサッカーを要求するのはそもそもムリなんじゃないのだろうか。


――


なにい、結局サッカーの話がしたかったのか。
それを言うために生物学の話から始めたか。
長生きするぜ。(はい、そうします)
横網町公園
数日前、都立横網町(よこあみちょう)公園を自転車で通りがかった。
初めてこの公園の中に入ってみた。
東京都慰霊堂や復興記念館がある。

運命の時、大正12(1923)年9月1日午前11:58。
関東大震災。
死者・行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋損害69万4千戸余。

この公園は元々陸軍被服廠があった場所で、
公園として改修中に震災が起きた。
格好の避難場所として続々と避難民が詰めかけて
押し合いへし合いになる。
大八車で持込んだ所帯道具に周囲の烈火熱風が飛び火し、
阿鼻叫喚の地獄図絵になったそうだ。
この公園だけで3万8千人が焼死したとの事。

関東大震災で焼け焦げ、高熱で溶けた残骸が屋外に展示されていた。
印刷機、シャシーとエンジンだけになった自動車、
クニャクニャになった鉄柱やコンクリ柱、大量の釘が溶けて塊りになったもの…。

印刷機シャシーコンクリ柱


地球という惑星、
いくつものプレートが重なる地形的な構造で、
残念ながら日本はどこにも安全な場所はない。
会津っぽ
今年(2013年)のNHK大河ドラマ『八重の桜』で
会津藩家老・西郷頼母(たのも)という人物を知った。
演じたのは西田敏行。(この人ちょっと出演過多じゃないの)
見ていた人は「ああ、あの人だ」と思うけど、
見ていなかった人は全然関心が沸かないでしょうね。
(明治になってからの京都編はあまりおもしろくない)


会津戦争が始まり頼母の親族の女子供たち21名は足手まといになるまいと全員自刃。
一室に集まり屏風を逆さに立てて取り回し、見事に果てるすさまじさ。
大人はその前にそれぞれ辞世を書いて残している。
ちなみに頼母の妻の辞世は
“なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け”。

武家の一族は絶えず“覚悟の死”を背負っている日々である。
頼母は長男を連れて会津戦争で負け、さらに函館戦争に行って再び負けた。
この間の頼母に対する毀誉褒貶は省略。

薩長が錦の御旗を立てて官軍となり、
会津藩は朝敵、賊軍との汚名を着せられての戦さであった。
藩主の松平容保(かたもり)も家来たちもどうにも納得がいかないのだ。
京都守護職の時に容保は孝明天皇から直筆の手紙(御宸翰)を貰っている。
「言う事を聞かない奴が多くて困っていたんだよ。
そこであんたに頼んだらすぐ来てくれて助かった。その忠誠心は深く感謝するよ」
容保はその手紙を肌身離さず持っていた。

この時孝明天皇と十四代将軍家茂(いえもち)もそれなりに考えが似ていて、
情勢は大変だけどなんとか協力しあって難局に対処しようね(公武合体)と確認しあっている。
家茂の妻は皇女和宮だし。

ところが革命積極派は、
「そんな甘っちょろい事じゃ大大大大大変革は成就出来ない」と、その筋が暗躍した?
なぜか孝明天皇(満35歳没)と若い将軍家茂(満20歳没)が相次いで“病死”する。

杉下右京も言っている。
「偶然過ぎるという事は偶然じゃないと考えた方が理にかなっていますねぇ」

坂本龍馬は事の真相を知ったので消された説もあり。
(信じるか信じないかはあなた次第)←このフレーズは便利過ぎる免罪符だな。
とにかく虚実の諸説は多数。

結果的に、日本は綱渡りの近代化を成し遂げた。
「猛獣たちの檻の中にいるウサギ」という立場から辛くも身を守る存在に変身した。
歴史の大きなうねりの中で“正邪”はその日の天気のように気まぐれです。


かくして頼母と長男は多くの家族を失ったまま明治を迎える。
その後長男も病没してしまうので甥っ子を養子に迎える。
その子を西郷四郎という。
四郎は上京し、やがて漱石家にも出入りするようになる。
彼は柔道の道に進み講道館四天王の一人となる。
小兵ながら「山嵐」という技を編み出した。
(後年、富田常雄は小説『姿三四郎』のモデルにした)

ここで「ん?!」となりますね。
漱石の『坊っちゃん』に出て来る坊っちゃんの相棒の教師は硬骨漢の「会津っぽ」であだ名が「山嵐」。
薩長が牛耳る明治政府に対する江戸っ子漱石の反骨心の表れとも。

「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「君はどこだ」
「僕は会津だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会には行くのかい」



まあ、歴史上の話と自分の知ってる身近な世界がリンクすると背中がゾクゾクするな。
モース・コレクション
江戸東京博物館(両国)の特別展に行った。

『「明治のこころ」モースが見た庶民のくらし』
(一般1,300円)

エドワース・モース(1838-1925)/米国の動物学者。
明治10年(39歳)採集目的で来日したが請われて東京帝国大学の教授に就任。
横浜から新橋への汽車の窓から貝塚を発見した。
後に彼の手で発掘された「大森貝塚」。

モースは勤勉で実直で好奇心が人一倍旺盛な人物だったようだ。
見る物、聞く物、触れる物…あらゆるものに関心を示した。

進歩した西欧人が現地人を見下すというような態度で無く、
むしろ西欧人にない日本人の優れた点を称賛するほどだ。
日本語も日常会話くらいは不自由しない程度になり
日本の各地を旅した。

展示品の中には
庶民が習字のお稽古に使った真っ黒な練習帳がある。
よくこんなものまで保存したものだ。
モノクロ写真に彩色した当時の写真がある。
海苔の箱には当時の海苔が入っている。
瓶に入ったままの干菓子もそのままある。
職人の仕事は芸術の域に達していて芸術との境目が判然としない。
「生き人形」はマダム・タッソーの蝋人形のようだ。

当時の日本人の庶民生活全般を収集して米国に持ち帰り保存したから
奇跡のように残ったものも多い。
結果的に関東大震災にも大空襲にも損傷されないで済んだとも言える。

モース展
坂道散策
時代がついた家 左が日無坂、右が富士見坂。

この坂道の家を初めて知ったのは何かのブログでだった。
「いやいや、なかなか…」と思った。
その内行って写真を撮りたいと思った。

ところが機会というものは現れずうやむやに過ぎた。
しかしハタと思った。
「ぐずぐずしていると無くなってしまうぞ」

そうなったら取返えしがつかない。
改めて場所をネットで確認した。
地形上、その辺りは坂が多いのを知った。
近辺に名前の付いた坂がたくさんある。

周辺の坂の見物も兼て、暑さを避けて曇りの日に出掛けた。
タモリが良く言う高低差を愛でる坂三昧だ。

<日無坂>と<富士見坂>が鋭角で交わるスキマのような土地にその家はあった。
「なるほどなるほど」。

日無坂は階段でいい味を醸している。

この日歩いたのは<日無坂><富士見坂><小布施坂><豊坂(とよさか)><幽霊坂>の五つ。
他にも周辺にまだ坂があったのだが、まぁ1回の散策ではこれくらいでよかろう。

小布施坂豊坂 (左)小布施坂、(右)豊坂。

帰りの都電に乗る前に、雑司ヶ谷の鬼子母神にも初めて寄った。
解体中(同潤会上野下アパート)
“住文化”の生き証人であった一連の「同潤会アパート」の
最後の建物であるところの「上野下アパート」解体が進行中。

あぱーと 2013年6月29日

上野下アパート130226 2013年2月26日
大先輩の半藤一利氏
半藤さんは1930(昭和5)年、東京府下南葛飾郡大畑村字吾嬬(現在の墨田区八広)に生まれた。
三輪里稲荷神社(通称こんにゃく稲荷)が目の前にあり、
境内が自分ちの庭のような遊び場だった。
小学4~5年までそこにいて、次にすぐ近くに引越す。
新しい場所の近くに王貞治の生家があり、半藤たちが空地で相撲を取っていると、
目の大きい少年が「入れて」と来る。
まだ学校に上がる前の王少年は半藤より10歳年下。
当然体格差があり半藤が負かす。
戦時下だから「敢闘精神が足りない」と
王少年の頭をゴツンとやると泣いて帰って行ったとの事。
次の日また「入れて」と来た。
(この王の生家の地は現在王の親戚がやっている八広の洋食屋「50BAN」の場所。
王の実家である中華「五十番」はその後業平に行き、その後新宿に移った)


半藤は府立七中(現在の墨田川高校)に入学。
昭和20年3月10日の東京大空襲に遭い、
父方の親戚を頼って新潟県長岡に疎開し名門旧制長岡中学に転校する。
もうその時点で連合艦隊司令長官山本五十六は戦死していたが、
山本は長岡中学の卒業生。この縁で半藤は山本五十六贔屓。



文藝春秋社に入社し、「週刊文春」や「月刊文藝春秋」の
編集長などを経て作家活動に入る。
編集員時代に司馬遼太郎や松本清張などを始めとする
錚々たる作家たちとの交流が出来る。
ノンフィクション『日本のいちばん長い日』は今でこそ著者が半藤一利に
なっているが、当初は評論家の大宅壮一“編”として発行された。
知名度が抜群だからその方が売れるという文藝春秋社の意向だったらしい。

奥さんは漱石の長女筆子の四女末利子(要するに漱石の孫)。
この半藤末利子さんの書いた『漱石の長襦袢』が興味深い。
末裔だからこそ知る漱石像がわかる。

それによると、神経衰弱の激しい時の漱石はDVもひどかったようで
癇癪を起すと次女は庭に放り投げられた事もあった。
三女以降は穏やかになった頃に物心がついたので
父漱石のやさしい思い出が多いらしい。



半藤さんの歴史のウンチクがとてもおもしろい。
ラジオで聴いた半藤の講演から幕末話をひとつ。

江戸の勝・西郷会談(薩摩藩邸)で「慶喜と江戸の安泰」を
官軍が約束してくれれば江戸を明け渡すいう条件を出す。
とにかく国内が英仏の代理戦争をやったら植民地になってしまうと説く。
明日に決まっていた江戸総攻撃はとりあえず中止、
慶喜の処遇の件は西郷の独断では権限がない。
京都に戻り談合してから結論を出すという事で西郷は京都に戻った。

その間にも勝はいろいろ根回しする。
最悪の事態に至ったら官軍を江戸に引き入れてから火の海にする手筈を整える。
新門辰五郎などの火消しの親方たちにイザとなったらやってくれと指示した。
「火消しが火付けするなんざぁ…」とさすがに驚いたそうだ。
それから薩摩の後ろ盾である英国に根回しをする。
一人で横浜の英国駐日公使パークスを訪問した。
パークスは会いたくないので多忙だと断った。
もとより想定内で、勝は「待たせていただく」と長期戦の構え。
昼の弁当持参で行ったそうだ。たぶん竹皮に包んだ握り飯だろうか。
夕方になってもまだ帰りそうにないので仕方なくパークスが出て来た。
パークスと勝は初対面。
いろいろ話している内に勝という人間の識見に引きこまれた。
江戸湾に停泊中の英国軍艦の艦長も呼んで
3人で夕飯を食べながら話した。
イザとなったらその軍艦で慶喜の英国亡命案さえ話に出た。

二度目の江戸会談(池上本門寺)に向かう西郷が
江戸に入る前に横浜の公使館に寄るように言われ、
国際法的にも敵のトップを生かしておくのが良いだろうと意見された。
もとより京都の激論でもそのように決まって江戸に戻った西郷だったが、
「勝さんに先回りされた」と思った。
かくして江戸無血開城。江戸市民百万人も最悪の事態を免れた。

上野の山の彰義隊戦争や会津戦争、函館戦争などは本筋でなく
大きな流れの中では敗戦処理的な戦闘に過ぎない。
もちろん会津などが受けた辛酸は涙無くては聞けない話がたくさんあるけれども…。
どちら側にも筋が通っているから悲劇なのだ。
幕府にはもう現実処理能力がなく世界情勢的にも通用しないから
新たな体制に変わらねばならないというのも大義だし、
大恩のある徳川家に武家としての義理を立て命運を賭すのも大義。
大義と大義とのぶつかりあい。
そこに無数の個人の悲劇が生じる。


後年、勝海舟が西南の役に斃れた西郷隆盛の記念石碑を私費で建てた。
新政府に楯ついた人物の顕彰碑を建てるなど、当時極めて憚れるのを敢てした。
場所は向島の浄光寺という寺の境内だと当時の記録にあるそうで、
その寺を半藤さんが地図上で捜しても見つからない。
不思議不思議と散々捜したら、何の事はない、荒川放水路(現在の荒川)を造る時に用地に掛かって元の場所は川の底。寺は葛飾区に移転した木根川薬師の事だった。石碑は大正2年大田区洗足池公園に移設された。


自分一人の肩に一国の行く末がのしかかったまま、持参した弁当を食べる心境はいかばかりだったろうかと半藤さんの話を聴いて思いましたよ。

(※各種文献、放送、Webサイトを参考にしました)

弘福寺
首都高向島線。
右上に黄檗宗の禅寺、弘福寺。

勝海舟が若い頃牛嶋神社で剣術の寒稽古に励み、
近くのこの弘福寺で座禅も組んだ。

森鴎外は三鷹に改葬されるまでここに埋葬されていた。
永井荷風はここの鴎外の墓参りをしている。

弘福寺


(※関連前回記事/2009年1月20日
再び平賀源内
先日平賀源内の墓が付近にあるという事がわかったので
今回はネット検索して、だいたいの位置を頭に入れて行ったのですぐ見つかった。
<東京都台東区橋場2-22-2>

無骨な鉄の扉があるが開いていて入れる。
大きな藪蚊がブーン、ブーンと顔の周囲を飛び回るので長居出来なかった。
訪れる人はかなり少なそう。

源内1小さいけれど築地塀があって趣きがある。この塀も含め昭和6年旧高松藩主松平頼壽伯爵ら有志が整備したようだ。そもそも源内は高松藩士。

源内2源内の墓石。後方にある小さいのが従僕福助の墓石。

源内3墓の奥の方にある顕彰碑。昭和初期区画整理で移転の危機の際、有志の骨折りで源内墓石だけこの地に残ったと書いてある。この碑の建立日は昭和5年と記してある。


(※前回記事/2012年8月25日
平賀源内
自転車で明治通りの台東区橋場辺りを通行中、発見。
平賀源内の記念碑。

江戸時代の学者、作家、科学者、画家、発明家、コピーライターの
多芸多才の人であり異才、変人でもあった。
杉田玄白らの蘭学者とも親しく交友。
殺傷事件を起こし投獄中に破傷風で死去と言われる。

帰宅してからネット確認すると
この裏手辺りに源内の墓があるらしい。
元々あった寺と墓は移転したが
なぜか源内の墓(従僕の福助も)だけ残ったらしい。

平賀源内
榎本武揚(1836・天保7年~1908・明治41年)
榎本武揚の人生は戊辰戦争を境にふたつに分かれる。

幕末に小身旗本の次男として下谷御徒町で生まれる。
昌平坂学問所、長崎海軍伝習所などで学び、1862年幕府派遣オランダ留学生として4年間渡欧。
専門の海軍の勉強の他、先進国の各種文化・技術の習得に努め、同時に蘭、英、仏、独の各語と国際法をマスターした。

1868(慶応4)年戊辰戦争勃発。江戸無血開城。
これに不満な旧幕府海軍を率いて蝦夷地に向い、薩長軍と函館で戦う。
明治2年囚われて斬首の声が高い中、「国際法を熟知し先進知識を持つ人物」を失う愚を回避する方が良いと助命嘆願され明治5年放免された。
すぐ新政府に登用され官僚・閣僚として日本の近代化に貢献。
海軍卿、逓信大臣、農商務大臣、文部大臣、外務大臣を歴任した。
福沢諭吉は、榎本や勝海舟を「二君に仕えた」と非難するが、
貴重な人材として重用せざるを得なかった新政府の事情も分かる。

明治7年ころに墨堤近く(現在の向島5丁目)に土地を購入したが
長く官舎暮らしや外国赴任暮らしなどで落ち着かなかった。
明治30年以降政界を退いてやっと向島に腰を落ち着けた。
旧幕臣たちや、中でも函館戦争の戦友たちと、
定期的に集っては談論風発のようであったらしい。
そこにはたまに勝海舟も顔を出した。

晩年は悠々自適の生活で、
墨堤を馬に跨がってぽっくりぽっくり散歩していたらしい。

榎本榎本アップ
墨田区堤通2丁目の防災団地横の目立たない所に銅像がある。
しかしほとんど知られていない。
ワタシも自転車で通り掛って「これは誰?」と近寄って説明を読んで初めて知った。

(ひ孫の榎本隆充氏の文章やウィキペディアなどを参考にした)



※付記/本日現在、防災団地と隅田川に挟まれた東白鬚公園の桜はまだ三分咲きか。
成島柳北
墨田区観光協会が発行している「向島文学散歩」という
小冊子(300円)がある。
某ブログで紹介されていたのでワタシも手に入れた。
そこに成島柳北(1837~1884)の顔写真が載っていた。
それを見て思わず膝を打った。

顔が見事に長い。
典型的な馬面(うまづら)である。
なぜ長いとワタシが膝を打つのか?

それはこうである。
以前何かで読んだか、あるいはラジオで聴いたのか
はっきりしないがこんな事前知識のためだった。

まず映画の話から始まる。
黒澤明監督、三船敏郎主演の映画「椿三十郎」(1962年)の中の事である。
(※間違っても森田芳光監督、織田裕二主演のリメーク版の方ではない)
終盤のシーン、
一件落着して伊藤雄之助が扮する城代家老が言うセリフ。
(※俳優伊藤雄之助は顔が長いので有名だった)
「お前らが謝ることないよ。わしに人望が無かったのがいかんのだ。どうもな、このわしの間延びした馬面にも困ったもんだ…。昔のことだが、わしが馬に乗ったのを見て、誰かこんなことを言うたよ。『乗った人より馬が丸顔』」と言って複雑な笑顔を作る。

聞いていた若侍たちが笑いをこらえ、
横にいる奥方が吹き出して、場の空気が和む。
それは映画界をあっと言わせたところの、
あの有名な、空前の一瞬の斬り合いに至る
直前の緩急の仕掛けなのだ。
観客の気持ちの糸を一旦緩ませる作用。

あの時のセリフが、成島柳北のエピソードに由来する説あり。
幕末、成島柳北は徳川幕府の要職(外国奉行など多職歴任)を担っていた。
彼が馬に乗った姿を、そばにいた誰か(ジャーナリスト福地源一郎?)が見て
「これはさて世はさかさまになりにけり乗った人より馬が丸顔」と
言ったというエピソードが残ったらしい。

(※このエピソードは「高杉晋作」説の方が
圧倒的に強い。確かに高杉晋作も馬面だが、それってどうも
“全国区的な知名度”に引きずられていないだろうか)

そのエピソードを映画の脚本を書く時に取り入れて、
見事に効果的な役割を果たしたと言える。

その後、幕臣であった成島柳北は新政府にポストを求めず、
洋行などを経て、「朝野新聞」の初代社長になる。

江戸城明け渡し(1868)以降、
向島(現在の言問小学校の地)に住んで47歳で死去。
余談ながら俳優の故森繁久彌は成島柳北の兄の孫との事。
<試衛館>跡
新宿区市谷柳町25番地。
ずいぶん前にTV朝日の「ちい散歩」で地井武男が歩いていたので行ってみた。
グーグルマップを最大に拡大して持参したので
どうにかたどり着いたが分かりにくい場所だ。

記念碑があるだけでほかは何もない。
しかしひっそりしているだけに却って感慨深い。
養父近藤周助の天然理心流道場<試衛館>を勇が継ぎ、
門弟土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助
そして食客永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一たちと
青春の汗を流していた。
実在の彼らが150年くらい前にこのあたりをウロウロしていたんだ。

この無名の青年たちが浪士隊に加わって上洛し、
幕末史を駆け抜ける事になる。

試衛館



余談ながら、周辺には新住居表示未実施の町名や昔懐かしい町名が多い。
涙が出そうなくらいうれしい町名だ。

愛住町(あいずみちょう)
赤城下町(あかぎしたまち)
赤城元町(あかぎもとまち)
揚場町(あげばちょう)
荒木町(あらきちょう)
市谷加賀町(いちがやかがちょう)
市谷甲良町(いちがやこうらちょう)
市谷砂土原町(いちがやさどはらちょう)
市谷左内町(いちがやさないちょう)
市谷台町(いちがやだいまち)
市谷鷹匠町(いちがやたかじょうまち)
市谷田町(いちがやたまち)
市谷長延寺町(いちがやちょうえんじまち)
市谷中之町(いちがやなかのちょう)
市谷八幡町(いちがやはちまんちょう)
市谷船河原町(いちがやふながわらまち)
市谷本村町(いちがやほんむらちょう)
市谷薬王寺町(いちがややくおうじまち)
市谷柳町(いちがややなぎちょう)
市谷山伏町(いちがややまぶしちょう)
岩戸町(いわとちょう)
榎町(えのきちょう)
改代町(かいたいちょう、かいだいちょう)
神楽河岸(かぐらがし)
神楽坂(かぐらざか)
片町(かたまち)
河田町(かわだちょう)
喜久井町(きくいちょう)
北町(きたまち)
北山伏町(きたやまぶしちょう)
細工町(さいくまち)
坂町(さかまち)
左門町(さもんちょう)
三栄町(さんえいちょう)
信濃町(しなのまち)
下宮比町(しもみやびちょう)
白銀町(しろがねちょう)
新小川町(しんおがわまち)
水道町(すいどうちょう)
須賀町(すがちょう)
住吉町(すみよしちょう)
大京町(だいきょうちょう)
高田馬場(たかだのばば)
箪笥町(たんすまち)
築地町(つきじまち)
津久戸町(つくどちょう)
筑土八幡町(つくどはちまんちょう)
天神町(てんじんちょう)
戸塚町(とつかまち)
富久町(とみひさちょう)
内藤町(ないとうまち)
中里町(なかざとちょう)
中町(なかちょう)
納戸町(なんどまち)
西五軒町(にしごけんちょう)
二十騎町(にじゅっきまち)
馬場下町(ばばしたちょう)
払方町(はらいかたまち)
原町(はらまち)
東榎町(ひがしえのきちょう)
東五軒町(ひがしごけんちょう)
百人町(ひゃくにんちょう)
袋町(ふくろまち)
舟町(ふなまち)
弁天町(べんてんちょう)
本塩町(ほんしおちょう)
南榎町(みなみえのきちょう)
南町(みなみちょう)
南元町(みなみもとまち)
南山伏町(みなみやまぶしちょう)
山吹町(やまぶきちょう)
矢来町(やらいちょう)
横寺町(よこでらまち)
余丁町(よちょうまち)
若松町(わかまつちょう)
若宮町(わかみやちょう)
早稲田鶴巻町(わせだつるまきちょう)
早稲田町(わせだまち)
早稲田南町(わせだみなみちょう)
今戸神社
ちょっと前の事、
自転車でぶらぶらしていたら
今戸神社があったので境内に入ってみた。
(東京都台東区今戸1-5-22)

そしたらこの石碑があった。
“沖田総司終焉の地”と彫ってある。
沖田総司


そうかここで亡くなったのか。
激動の幕末を駆け抜けた天才剣士。
病には勝てず、享年は25歳前後らしい(はっきりした生年月日不明につき)。

説明板にこう書いてあった。
「沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順
の治療にも拘わらず、
その甲斐なく当地にて没したと伝えられている」