普段のズボン(その2) 達人の人達
「世の中スイスイ(粋々)、お茶漬けサクサク…」志ん生、志ん朝の噺に出て来るフレーズ。肩の力が抜けてあんにゃもんにゃです。~長い散歩の途中~
ジョサイア・コンドル
英国人建築家。
1852年/ロンドン生まれ。

1877(明治10)年(25歳)/“お雇い外国人”として来日し建築学を教える。
東京駅設計に関わった辰野金吾など日本の錚々たる近代建築家を育てる。
自身も上野博物館、鹿鳴館、三菱一号館、ニコライ堂などを設計する。


ジョサイア・コンドル三菱一号館
(写真)東大本郷構内にあるコンドル銅像。三菱一号館(復元、丸の内)。


一方コンドルは絵画にも強い興味を示し、
1881(明治14)年(29歳)/コンドルは日本画家河鍋暁斎(かわなべきょうさい 当時50歳)に弟子入りをする。

 かつてNHK「日曜美術館」でも河鍋暁斎を取り上げ放送された。
 暁斎は偉大な画家で有りながら、もうひとつ知名度が低いのは
 (1)活躍が文明の激動期で江戸時代と明治時代双方から敬遠された。
 (2)画業が浮世絵と狩野派の二派にわたるため、双方から敬遠された。
 (3)酒席で戯画を描き投獄されたことが印象に残り、
 作品に品格がないと見られた。
 (板橋区立美術館館長・安村敏信氏説)
 それでも戦前までは相応の知名度だったが戦後急に忘れられたようだ。

1883(明治16)年(31歳)/コンドルは暁斎師匠から「暁英」という雅号をもらう。
1884(明治17)年(32歳)/師に付いて鎌倉へ写生旅行。
1885(明治18)年(33歳)/師らと日光へ写生旅行。
1886(明治19)年(34歳)/師から画道上達を褒められ、師の『大和美人図屏風』を贈られる。
1887(明治21)年(36歳)/コンドルのこの歳の作品に「ニシコンヤ丁 コンデエール」と文字があり、顔を刻んだ判も使っている。神田西紺屋町(現在はこの地名は無く。神田東紺屋町しかない)に住んでいたのだろう。
コンドルは正座が出来ないので寝そべって描いていたようで、その様子を描いた師匠のスケッチが残っている。
1889(明治22)年(37歳)/河鍋暁斎は子供たちやコンドルに見守られながら永眠(胃癌、59歳)。
1893(明治26)年(41歳)/コンドルは日本人と結婚。日本に永住を決める。
1911(明治44)年(59歳)/”Painting and Studies by Kawanabe Kyosai"(『河鍋暁斎-本面と面稿-』という英文の出版をして師の画業を世界に示した。これもあって暁斎の画業は日本より世界の方で知られている傾向があるようだ。
ボストン美術館他のアメリカの日本美術を所蔵している美術館は大抵暁斎作品を所蔵している。

1920(大正9)年(67歳)/コンドル永眠。護国寺に墓がある。




参考/ブログ「無為庵乃書窓」http://www.muian.com/muian04/04kawanabe.htm#03
※このブログ自体にも元の参考資料が記載してあり、ワタシの記事は孫引きにあたる。
バーニー・フュークス
2014年9月28日(日)のNHK「日曜美術館」で紹介された
イラストレーターの“バーニー・フュークス”を観た。
これぞ“アメリカ人好み!”の絵を描く。

ノーマン・ロックウェルをあざとくムーディにした画調。
ロックウェルはあくまでも生真面目な画調だが
フュークスは粋でおしゃれを極めている。

ある意味でロックウェルも充分あざといが…。
アメリカ的なあざとさ。
ロックウェルはアメリカ的演歌またはアメリカ風浪花節でアメリカ人を泣かせる。
どこをどう描けばアメリカ人の琴線に触れるかを分かり過ぎていてこそばい。
いやそれを過不足なくこれでもかと描けてしまう職人ロックウェルが大好きです。

さらにボブ・ピークともちょっと違う。
ボブ・ピークも良くも悪くもアメリカ的な
派手派手なエンターテインメント・イラストレーターだった。

とにかくそういう意味では
みんなアメリカンイラストレーターたちだった。
アメリカ、アメリカ、アメリカ!


バーニー・フュークスの小さい展覧会を
「代官山ヒルサイドフォーラム」でやっているので観て来た。
入場料500円。

半蔵門線と東武鉄道が乗り入れてから渋谷に出るのが非常に便利。
往路は渋谷で降りて代官山まで散歩しながら歩く。

渋谷駅周辺は再開発の真っ最中。
ガラッと変化するためにごった返している。

渋谷解体中の東急百貨店東横店の3階にまだ銀座線が出入りしている。
渋谷川渋谷川2渋谷川。この両側のビルも解体を待っている。



さてバーニー・フュークスである。
木漏れ日、逆光の表現の仕方が惚れ惚れするほどである。
絵の具が乾かないうちに光の部分を拭き取って下地の白を出す。
アウトフォーカスの遠景がぼんやり霞んでムードたっぷり。
本当に画面から陽光がにじんで来る。輝いている。

臨場感を強くするために故意に垂直線(建物の柱など)を傾けているのが目に付く。

フュークスは当初トランぺッターをめざしていたが
高校を卒業した夏、工場の事故で右手指3本を失くし音楽はあきらめた。
独学でイラストを描き始め、最初の仕事は自動車広告のイラストだった。

その後、スポーツイラストレーションや著名人の肖像画などで
数々の賞を受け活躍をした。

2009年76歳で逝去。




蔦屋書店蔦屋書店空中通路で。

ついでに、すぐ隣りの蔦屋書店に寄るも
特に用は無かったのでひと回りしただけですぐに出る。
帰路は代官山駅から渋谷まで東急東横線に一駅乗る。
力士往来
9月場所中だが、
ある力士は活躍し、またある力士は去って行った。


●逸ノ城(いちのじょう)<湊部屋、東前頭十枚目>
モンゴル遊牧民出身。192cm、199kg、21歳。
今までのモンゴル人力士はモンゴルの都会っ子だったが
この人はほんまもんの遊牧民育ちの野生児だそうだ。
アマチュア横綱経験者なので幕下付け出しからスタート。
地位の関係で本来ならパス出来るのに自ら希望して相撲教習所に1年(日本人は半年)通所中。
相撲教習所では相撲の歴史や書道、一般常識、実技などを教える。
まだちょん髷が結えない。


●育盛(そだちざかり)<式秀部屋、東序ノ口24枚目>
※相撲新弟子体格基準167cm以上、67㎏以上。
検査前日67㎏くらいだった体重が当日には63㎏くらいになってしまった。
急遽おにぎり4個、うどん2杯、300mlの豆乳2本、水を約3リットルを飲む。
ギリギリで検査OKが出る。
白鵬も新弟子検査の時は68㎏だった。小さすぎてムリだと思われていたが、今じゃ大横綱だ。
育盛も大化けする可能性が無くは無かった。
2014年7月、初めて前相撲として土俵に上がった日、
立ち合い一瞬相手の“突き一発”で土俵下に弾き飛ばされた。
2014年9月正規の初相撲初日を前に引退。
9月に入って体調を崩し家族ともよく話し合って決めた。
既に取り組みが決まっていたので不戦敗となった。
結局、力士としての正式な生涯通算成績は0勝1敗(しかも不戦敗)という記録が残った。
前相撲の成績は記録には入らない。
17歳だから早く見切りを付けて良かったかも知れない。。


●隆の山(たかのやま)<鳴戸部屋→田子ノ浦部屋、最高位:西前頭12枚目>
チェコ共和国プラハ市出身。185cm、91kg、31歳。
軽量力士ゆえのサーカス相撲だった。
7月場所12日目に引退発表。
9月7日断髪式が行われた。
帰化しなかったので国に帰る予定だそうだ。


●大砂嵐(おおすなあらし)<大嶽部屋、前頭四枚目>
エジプト出身。189cm、158kg、22歳。
本名:アブデラハム・アラー・エルディン・モハメッド・アハメッド・シャーラン。
イスラム教徒。腹が減ってもラマダンを守る。
ラマダン期間は日の出から日没まで断食。
腕力(カイナヂカラ)が半端じゃない、片手で懸垂が出来るそうだ。


●遠藤(えんどう)<追手風部屋、前頭筆頭>
183cm、150kg、23歳。
永谷園のCMにも出て今や人気と期待が一番の日本人力士。
遠藤も相撲教習所をパス出来る立場だったが親方の意向で通った。
まだ大銀杏が結えない。
どうした! 7日目までまだ白星無し。
種田陽平展
先日『思い出のマーニー×種田陽平展』(江戸東京博物館)を自転車で見に行った。
種田陽平はジブリ・アニメ『思い出のマーニー』の美術監督を務めた。


種田氏は日本を代表する美術監督の一人。
実績は『スワロウテイル』『不夜城』『キル・ビルVol.1』『THE 有頂天ホテル』『フラガール』『ザ・マジックアワー』『空気人形』『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』『悪人』『ステキな金縛り』『セデック・バレ(台湾映画)』など他多数。
日本だけでなくアジア各国や米国(クエンティン・タランティーノ、キアヌ・リーブス)からも仕事の声が掛かる。

先般8月25日のNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀“細部を突き詰め、世界を創る”』でも見た。
実写作品でもアニメ作品でもこなせるものなんだな。

作品コンセプトの理解から始まり、極々小さなところまでへのこだわりは
ゼニの取れるプロの仕事というものを垣間見せてもらった。

種田陽平展


ワタシが思うに、
映画やマンガ、広告、出版、各種グラフィック製作や工業デザイン、IT関連等々、
世の中すべての実務的なクリエイティブ仕事に携わる人たち、
寝食を削って日々蠢いている職人的な仕事に従事する人たちこそが
この社会を“実際に”動かしているのだ、回しているのだ。
(その中の大部分はもちろん無名のままだ)
この事にしみじみと感銘を受ける。


そういう実社会と密接に関係している人々と比べると、
現代美術と称するたくさんの虚仮脅しの作品や、
公募展等に展示してある多くの作品群は
実社会とどれほどコミットしているんだろうかと怪訝に思う。

そもそも現代芸術は少々極端な事を言えば
マルセル・デュシャンの小便器『泉』(1917年)や、
アンディ・ウォーホルの『キャンベル・スープ』『マリリン・モンロー』(1960年代)で
必要充分に終わっていて、
後の人たちがどんなに奇抜ですっとんきょうな作品を作っても
所詮、二番煎じ、三番煎じ…、百番煎じに過ぎないと思う。


ちょっと種田氏の話題と離れたかな。
とにかく日頃から
名も無い実務家たちの地道だけれど確かな足取りの仕事に比べ、
世の凡百の芸術家然とする人たちにそこはかとない胡散臭さを感じているので。

もちろん歴史に洗われても厳然として残っている
ミケランジェロや北斎などの巨人たちは別格です。
フェリックス・ヴァロットン
ヴァロットン展

先般のNHK「日曜美術館」で<フェリックス・バロットン>という画家を知った。
今まで知らなかったのが残念に思うほど“イイ”。
好みだ。ワタシの嗜好に合致する。

百年前の作品なのにモダン。
現代で充分通用するイラストレーション。
感覚が鋭い。

スイス生まれで後にフランスに渡った。
当時の風潮と同じく日本の浮世絵に影響を受けた。
木版画にも類いまれな才気を発揮した。


展覧会が開かれているので行って来た。
『冷たい炎の画家 ヴァロットン展』
(※NHKではバロットンと表記していたが展覧会ではヴァロットンと表記している)


三菱一号館美術館

会場は三菱一号館美術館。入館料1,600円。
作品も良いが、何よりもこの美術館が良い。
初めて入ったがなかなかクラシックな佇まいで好感。
文明開化の丸の内三菱村の名残りの煉瓦造り。
1894年竣工。ジョサイア・コンドル設計。
1968年解体。
2009年復元竣工。

ついでに久し振りに大手町や丸の内を歩いたが高層ビルが
どんどん増え、一帯のソフィストケートにも磨きがかかった。
人間3Dプリンター
また安藤緑山(あんどうろくざん)を見て来た。
今度は三井記念美術館(中央区日本橋)の特別展『超絶技巧! 明治工芸の粋』。

明治の職人の精緻さに恐れ入る。
七宝、金工(および自在金工)、漆工、刺繍絵画、牙彫(げちょう)、木彫、薩摩。それらを駆使した刀装具、印籠など。

安藤緑山のコーナーがあった。
茄子の葉のペラペラに薄いところや竹の子の皮の薄いところ、
象牙をどうやって削ったらあんなに薄く削れるのか。
ちょっとのミスでパキンと割れてしまいそうだ。
しかもどうやっても彫刻刀が届きそうもない部分があり、
そこをどうやって削ったのか。
見れば見るほど疑問が出て来る。

“人間3Dプリンター”と呼ぶしかない。

“果菜”を2品、3品と組み合わせている作品がある。
そのX線写真が掲示してある。
解析すると金具やボルトでくっ付けている。
「は~ん、なるほど」それはそれで納得出来る。
しかし外観からは人の目には全く見えない。

まだまだ謎が深まる“謎の牙彫師”の面目躍如。


(※関連記事/2014年6月8日
個人資産の使い方
ホキ1 (700x525)

『ホキ美術館』に行った。
京葉道路の千葉東JCTから千葉東金道路に入り、中野ICから一般道。

2010年開館の写実絵画専門美術館。
超写実、超細密描写、超具象絵画のコレクション。
「ホキ」とはコレクターであり創設者であり元館長である保木将夫さんの苗字冠。(現在は娘さんが館長)
1931年東京生まれ。
東証1部上場の株式会社ホギメディカルの会長だったが2012年退任。現在は名誉会長。
ホギメディカルは医療用不繊布製品、滅菌用包装袋及び各種医療用キット製品のトップメーカー。
(※「保木」はホキと清音だが、社名はホギと濁音)

若い頃ある写実絵画を見てその前から動けなくなったのが
コレクションのきっかけだそうで、その後コツコツと写実絵画を集め始めた。
ある程度集まったら個人的に楽しむだけではなく、
多くの人に見てもらう社会的使命感が湧きあがり
日本初の「写実絵画専門美術館」を作った。

功なり名遂げた富裕者としての社会貢献の有り方の一つの形態。
凡庸な“大金持ち”を散見する昨今、賢明な富の使い方だ。


ホキ2 (700x524)ホキ3 (700x525)ホキ

外観も内側の構造もユニークな建物である。
解放感もあり地階まで自然光が届くのも良い。
ひとつだけ疑問だと思ったのは入口を入って受付に行く動線の途中が
スーベニールショップになっている事。
この手の記念品売店は普通観終わって出口を出た所にあるのが順序。
建物の構造上仕方がない配置だったのか。
混雑した時にはこれから入る人たちと、見終わって売店をウロウロする人たちが団子状態になるだろう。

さて作品について。
技術はどの作品もさすがであると思う。
作者により微妙な違いがあるが、描写テクニックはどれも唸らせる。

ただモチーフが旧態依然の感あり。
静物、裸婦、人物、風景。
テクニックの先にあるものに挑む人はいないのか。
“美術”としての現状に安住しているように感じないでもない。

このままではすごいテクニックの人、絵のうまい人、一般人の目を丸くさせる人、でもだから何?で終わってしまう恐れがあると思うのだが…。
そこはかとない物足りなさ。
突き抜けて、その先に行ってダビンチをめざして欲しい。

アンディ・ウォーホルがなぜ芸術史上のビッグネームなのか。
誰も見た事のない世界を提示したからだ。
この美術館に展示されているような作家たちも
せっかく持っている類い稀なテクニックを使って出来る“その先の世界”を提示して欲しい。

高尚ではあるが狭い美術界より、
映画やアニメのCG、広告、あるいは銭湯のペンキ絵などの方が現実世界に生き生きと関わっている。

以上は、しょせんは素人の感想です。
この美術館のコレクション群を観ただけで現状を云々するのは軽々しいかも知れない。

最後にひとつ。
「描き鉄」と表現したら良いのか“鉄道情景”を描いている福島尚さんに我が道を行く光明が見える。



昭和の森 (700x526)

せっかく遠くに行ったので隣りの千葉市『昭和の森』公園にも寄る。
とにかく広い(約100ha)のでとても徒歩では全体を掌握できない。
レンタル自転車を借りる。
ここは元はゴルフ場だったのかも知れない。
家の近くにこんな公園があったとしたらどんなに素晴らしいだろうか。
広々とした芝生広場がいくつも散在する。
無料。
平日だったからか、散策したりシートを広げてお昼を食べたりする人が予想外に少ない。
原信太郎という人
先日(2014年3月24日)横浜の『原鉄道模型博物館』に行った。
昨年訪問した時「定休日」だったという失態を演じたので再挑戦。
事前にHPを見て休館日でない事を確かめてから出掛けた。

しかし館自体も興味深いが、なにより
館長の原信太郎(はらのぶたろう)という人物が一層興味深い。
豪傑というか奇人変人というか、なんとも言いようがない。
1919年生まれだから94歳か。

ネット上に出ているこの人のエピソードを読み漁ると
真偽のほども含めて「う~ん」と唸るしかない。

とにかく鉄道好き。
裕福な家だったので子供時代から贅沢三昧、おもちゃをツケで買っていた。
慶応幼稚舎5年の時、一人で12日間関西旅行をして汽車と電車を乗り続けたそうだ。
その時おじいちゃんからハガキをたくさん渡された。
それには宛名欄には自宅住所、文面欄にはあらかじめ「元気です」と書かれていた。
それを毎日ポストに日付を書いて入れなさいという指示だった。

超偏食らしい。
野菜、魚(トロだけは食べる)、鶏肉、豚肉が大嫌い。
霜降り牛肉、ウニ、カニや甘い物が大好き。
コーラを毎日2リットル飲む。運動は嫌い。
コーラは1945年から飲み続けているらしい。
そんな現代の健康法で見たら「0点」の食生活。
ただしタバコと酒は一切やらない。

友人のコネでコクヨに入社。
破天荒な社員だったようだ。
入社1~2年は出勤簿を付けなかった。
着物で出勤。
しかしちゃんと実績は残した。
各種の事務機を作り、最大のものは立体自動倉庫などを作った。
鉄道模型作りの趣味が役に立った。

1964年東海道新幹線営業の記念1番切符を買うため9日前から並ぶ。
そのため役員会を欠席。
辞める時は専務まで務めた。

自分で作った鉄道車輌模型が1,000輌くらい。
所蔵車輌は6,000輌くらい。

兵庫県芦屋の自宅には百畳敷きの部屋に
自分だけの“シャングリラ鉄道”を走らせた。
これが博物館の元になった。
『原鉄道模型博物館』は2012年7月開館。

博物館のメインは「1番ゲージ」では世界最大級の広さ(310㎡)のジオラマ。
レールも車輪も鉄で作った。
鉄ならではの走行音。
模型は架線からパンタグラフで電気を取って走っている。
車輌の構造メカも極力本物に近づけている。
こだわりは余人の介入を許さない。
あきれるしかない。



模型2模型4模型3
模型1タンク車




(※前回記事/2013年9月18日
ジェフリー・アーチャーというジェットコースター人生
英国人。政治家、作家、一代貴族(男爵)。


1940年ロンドン生まれ。
大学はオックスフォード。その行動力により目立つ学生だったようだ。
1964~1966年英国を代表するような陸上ランナー。
1967年(26歳)大ロンドン市議会議員。
1969年(29歳)史上最年少で下院議員。
1973年(33歳)カナダの幽霊会社に投資して全財産を失う。
1974年(34歳)総選挙で落選。ただの借金まみれ男になる。

転んでもタダでは起きない。
痛恨の投資失敗事件を土台にした小説を書く。
1976年処女作『百万ドルをとり返せ!』が大ベストセラーになり借金を完済。
1977年『大統領に知らせますか?』
1979年代表作『ケインとアベル』で世界的ベストセラー作家の地位固まる。
1980年『十二本の毒矢』
1982年『ロスノフスキ家の娘』
1984年『めざせダウニング街10番地』

1985年(45歳)政界復帰。
1986年『ロシア皇帝の密約』

1986年(46歳)保守党の副幹事長時代、買春でスキャンダルが持ち上がる。
総選挙を控えていたので悪影響を案じて副幹事長の職を自ら辞したが、
そのスキャンダルを報じた<デイリー・スター紙>を名誉棄損で訴え勝訴。
損害賠償金50万ポンド(約1億円)を受取る。
同年一代貴族に叙任。

1991年『チェルシー・テラスへの道』
1993年『盗まれた独立宣言』
1994年『十二枚のだまし絵』
1996年『メディア買収の野望』
1998年『十一番目の戒律』

1999年(59歳)ロンドン市長選の保守党候補に決まった時、
彼の旧友テッド・フランシスが10数年前の裁判の時、偽証する事を頼まれたと暴露する。
これで市長候補から降りざるを得なくなった。
しかも10件もの容疑で逮捕され裁判の結果、
司法の執行妨害と偽証罪で有罪が確定してしまう(刑期は4年だが模範囚でいれば半分になる)。
この偽証というのは「妻に内緒でガールフレンドと食事をしたけど、君と一緒に食べた事にしておいてくれないか」というものだった。
被告が有名人で無ければ裁判にもなっていないだろう出来事だった。
しかし前の裁判で50万ポンドが手に入っているのはマズイ。
保守党追放処分。

2000年『十四の嘘と真実』

2001年7月19日(61歳)収監。
(この年「9.11」という歴史的事件があった)
獄中の彼や事務所に読者や友人から励ましの手紙がたくさん届き続ける。
フレデリック・フォーサイス(『ジャッカルの日』など)からも来たようだ。
(アーチャーもフォーサイスも好きな作家なのでゾクゾクする)
2003年(63歳)出所。

またまた転んでもタダでは起きない、『獄中記』はベストセラーに。
三部作で「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」とダンテの「神曲」に
なぞらえているそうだがまだ「天国篇」の邦訳は出ていない。
『獄中記』は<デイリー・メイル紙>に連載され稿料は50万ポンドだったそうだ。

その後も『運命の息子』『ゴッホは欺く』『プリズン・ストーリーズ』
『誇りと復讐』『遥かなる未踏峰』『時のみぞ知る』『死もまた我等なり』など
旺盛な作品群を生み続けている。


今もケンブリッジ市郊外のお屋敷に住んでいる。
自宅のガーデンパーティなどには錚々たる有名人も来るようだ。
植田正治展ハシゴ
チケット

昨日は写真家の植田正治(うえだしょうじ)展をハシゴした。
1913年~2000年で87歳没だが今年生誕百年。

東京都写真美術館(恵比寿)「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ」700円と、東京ステーションギャラリー(東京駅丸の内北口)「植田正治のつくりかた」900円。
独特な作画スタイルで「植田調」と呼ばれる。
フランスでもそのまま「Ueda-cho」と紹介されているそうだ。

いつか鳥取の植田正治写真美術館に行こうと思っていたが
「だいぶお腹がいっぱいになった」のでもう行かなくてもいいか。

いや、氏が育って愛した風土も見なくては。
氏は明るい太陽キラキラな場所は好きでないらしい。
山陰の陰翳のある灰色が好きなようである。

鳥取砂丘を背景にした「演出写真」が有名。
戦前、戦中、戦後と活動したが当初はあまり注目されていたわけではないようだ。

1980年代に時代が追い付いて来て、展覧会開催や写真集出版多数。
今見てもモダンでしゃれている。

没後の2005年にも再評価が高まり回顧展も開催多し。



※東京ステーションギャラリーは重要文化財であるところの、
レンガ積みの東京駅壁面がそのまま使われているので
非常にインパクトがある。
弱い展示品だと壁に負けてしまいそうだ。

れんが壁
「幸田 文」展
秋晴れが続いたので家にいるのがもったいなく、
世田谷文学館「幸田文展」に行った。
京王線「芦花公園」駅下車。
初めてだと思っていたが文学館前の小さな堀に錦鯉が群れているのを見て
「あ、ここ来た事ある」と思い出した。
何の展覧会だったか忘れたが確かに以前来た事があった。
錦鯉チケットほか

幸田文さんは東京府下南葛飾郡寺島村(現在の墨田区東向島)生まれ。
1904(明治37)年~1990(平成2)年。
ワタシは近くに住んでいるので勝手に親近感があるのだ。
(※関連記事/2009年8月25日

さすがに昔の人だ、字がうまい。
原稿用紙に鉛筆で書いているが達筆!

展示品に谷中五重塔の焼けた心柱の一部があった。
まさかそういうものにお目にかかれるとは思わなかった。
露伴とは切っても切れない塔だからうれしい。

そんな塔繋がりの縁で
文は奈良法輪寺三重塔再建に関わる事になる。
重く関わり過ぎて危なく何もかも失う瀬戸際まで行ったようだ。

露伴愛用の徳利もあった。
一合の小さい白磁で二ヵ所のへこみで持ちやすく作られている。
へこみは対角線の位置でなく九十度位の非対称でそれが景色にもなっている。

露伴が上機嫌の時は話がとてもおもしろかったそうで、
とにかく博覧強記の人だから
晩酌を呑みながらそれからそれへ知識がほとばしり出て
留まる所を知らなかったそうだ。
平生はとにかく怖い存在で、娘の文にとってはあまりにも大きい山として立ち塞がっていた。
良くも悪くも、この父(露伴)があってこの娘(文)が
出来上がったと言って過言で無いようである。

銀行などでもらったマッチ箱に文が千代紙を貼って手作りを楽しんでいた。
当時編集者として訪問していた村松友視はその都度そのマッチをもらっていたそうだ。
文手作りのたくさんのマッチ箱も見られた。

文さんが着ていた品の良い着物、帯なども見られた。
露伴の羽織なども見られた。
満足。

いつの日にか谷中の五重塔も再建される事があるかも知れない。
その跡地には今でも土台がひっそりと残っている。
「伊勢神宮 式年遷宮」写真展を見る
昨日(11月18日)三好和義写真展「伊勢神宮 式年遷宮」(和光・本館6Fホール)に行く。

被写体の絶対的存在感と写す撮影者のプロフェッショナルな仕事が相まみえた奇跡的響き合い。
もちろん式年遷宮が主体で記録撮影が従であるけれど。


ついでに周辺を散歩。

地下鉄東銀座駅で降り、地下通路から直接歌舞伎座地階に入れるので便利になった。
秋晴れの歩道には枯葉が舞う。
歌舞伎座 (525x700)枯葉歩道 (700x525)

オープンになった東京駅グランルーフに寄る。
1Fの広大な車寄せ部分はまだ盛んに工事中。
造形的な新奇さはあるけど、スーパー台風のような風速40~50mの風に耐えられるのか素人考えだが若干懸念。
グランルーフ2 (525x700)グランルーフ (700x526)
国立新美術館
先日行った国立新美術館は3回目くらいだが、
吹き抜けのロビーの造作は良く出来ている。

片側全面ガラス張りで開放的。
休憩スペースや喫茶スペースも程よく配置されている。

言わずと知れた黒川紀章氏設計。
晩年は選挙にご執心だった。

新美術館
アンドレアス・グルスキー展
グルスキー展
昨日、国立新美術館(東京都港区六本木)に行った。

ドイツ人写真家(1955~)。

写真の方向性がかなりワタシと似ているので興味津々だった。
ド素人のワタシとプロの世界的写真家を比べて申し訳ない。

その作風は“写真というもの”を一歩進めた。
写真としての表現力が1段階上げた功績は大きい。
これはパソコンが無ければ出来なかった仕事。

従来写真を大きく引き伸ばすとどうしてもエッジがぼやける。
丹念なパソコン作業でそれを修正する。
相当根気のいる作業だと思われる。
大きく引き伸ばしてもエッジがビシッと決まっている。

効果的な作品に仕上げるためにモチーフは大きい方が良い。
巨大な対象を大画面に詳細に写し取る。
大きな絵画に負けないアートになった。
立川談志
立川談志が死んだ(2011年11月21日/75歳/喉頭がん)。
今さらながら談志も死ぬんだなぁと思う。
回文「だんしがしんだ」は寄席の世界周辺では昔から言い古されていたが、このタイミングで使わなかったら使い所がない。

巨万の富を築いた王様も、昨日から何も食べてない素寒貧の人も、
そしてどんなに優秀な人も、何の取り柄も無い人も
「いつか必ず死ぬ」という事においてはなんて公平なんだろう。
多少の長い短いの差があるだけだ。
再生医療や移植医療が発達し過ぎると“金持ち”は死ななくなるかも知れないけど、
それはそれで「死ねない地獄」が待っているだろう。「ざまぁみやがれ」です。

凄い人だったと思う。
何回か生の高座を見ている。
CDセットも持っていたがiPodに移してから「ブックオフ」に売ったが結構いい値段で売れた。
建替える前の大昔の池袋演芸場で、
当時は出演者よりお客の方が少ない事が多く有ったが、
談志や志ん朝が出れば満員だった。
はねた後客席に来て「今日は誰が良かった?」などと気さくに話し掛けて来た。

後年はノドの具合が思わしくなくて気の毒だった。
超一流の演者でありながら、同時に超一流の批評眼がある人なので、
思うような落語を語れない自分が人一倍悔しかったんではなかろうか。

談志は言っている、「人間60を過ぎたらいつ死んでもおかしくない。長生きしたいのは『欲望』、死にたくないは『未練』」。

死を秘して葬儀を済ませてから発表させるなんて「ほどがいい」や。


~~談志で聞いた小噺~~

<病院>(これは昨日のNHKで何回もやっていた)
「近頃、物忘れが激しくて困ってんですよ」
「いつ頃からですか?」
「何の話ですか?」

<自動車事故>
ある夫婦がドライブの途中、運転を誤り崖から落下、妻は死に夫は重症を負った。
病院のベッドにいる夫を友人が見舞った。
「全く大変だったなぁ、どんな具合だ?」
「笑うと痛えんだ」

<レストランにて>
「おいウェイター、この肉固くてなかなか切れないな」
「『並』ですからね」
「『上』だと柔らかいのか」
「いえ、肉は同じですけど、良く切れるナイフが付いてます」

<金で買えないもの>
「誠実でまじめな人間を、金で買えないものかね?」
「あの、すぐ売るけど…」

<ママ>
「パパ! ママが青い顔をして何にもしゃべらないよ」
「うるさい、黙って掘れ」

<長電話>
「お前の電話は長いねぇ、いつも2時間は話してるな。だけど今の電話は30分で短かったね」
「うん、今のは間違い電話だった」

<評判>
「あなたには素晴らしいご兄弟がいるんですってね?」
「それは妹に言って下さい」

<名前>
「昨日大川を泳いでいるヤツがいたんだけどね、泳ぎの達人だね、感心した。ずっと顔を伏せたまま上流から下流まで泳いで行ったぜ」
「それ土左衛門じゃねえか」
「いや、名前は聞かなかったけどね」


(※少し関連の記事/2009年12月8日
イチローという野球選手
2011年1月放映のNHKテレビ「イチローの特集番組」の事。
何で今さらずいぶん前の話を?
ま、とにかく。

ーーーーー

イチローの独白。

第2回WBC決勝の韓国戦。
2009年3月23日。
延長10回の表、2死1、3塁。
ここでイチローに打席が回って来た。
それまで思うように打てず、期待に応えられず苦しんで来た。
イチローはあの時心の中で「頼むから敬遠してくれ」と思ったとの事。
初めての事だった。
ここで三振でもした日にゃ、今までの数々の良い事が吹っ飛んでしまう。
「あの時、打てなかったよね。イチロー」

そんな事を思ったのは初めてだったらしい。
かつてない恐怖だったとの事。
キャッチャーが座ったら「(こんどは逆に)もう行きたくなった」。
座ったという事は敬遠という方法はないという事。
それで敬遠なんて消えて
「今度は、敬遠なんてすんじゃないぞ」に変わった。
覚悟が決まった。
2球目くらいに1塁ランナーの岩村が盗塁。
2、3塁になってしまった。
「ふざけんな」敬遠の可能性が出てきてしまった。
でもキャッチャーは座り続けていた。
(イチローの不調が韓国チームをそう判断させたんだろう)

それからファール、ファールで粘り、
6か7球目にかなり低いボール球を「打てる」と思ってファールになった。
「あ、これはストライクゾーンに来たら今度は間違いなくヒットになる」と確信した。
次の球でヒットを打ったとき「ああ、やっぱり打ったな」と思った。
ガッツポーズをしない事が相手にとって、ダメージがより大きいなと考えたとの事。
同じ意味で日本のダッグアウトも見なかった。
もちろん心の内ではメチャクチャうれしかった。



第1回WBC日本チームの王監督が言う。
「本場のアメリカ人を黙らせちゃったってのが痛快なんだね。
(第1回WBCの時)みんな寄せ集めのメンバーだったが、最初の福岡ドームでの練習の時、イチローが先頭に立ち、ダッシュの時も本気で全力で走った。キャッチボールも全力で投げた。回りのメンバーが『あれイチローさんがあれなら、こりゃ本気ださなきゃ』と寄せ集めチームが一つにまとまった。
第2回の時は極度の不振だったがおくびにも出さなかった。内面は苦しかっただろうけど、淡々としていた。『良かろうが悪かろうがオレはリーダーなんだ』という自負、後ろ姿にみんなの視線が来ている事は充分知っていましたからね。知っているからこそ、弱さを見せず毅然として通せたんじゃないですか。『絶対負けない』という思いの強さがある」



視聴者や野球ファンの気持ちに響く、じっくり見せる番組だった。

ーーーーー

さて2011年のシーズンが終わった。
今年は年間200本のヒットが打てなかった(結果は184本)。
昨年までの「連続10年」で連続記録は途絶えた。
現在37歳(あと数日で38歳)。
来年どうなのかが大変興味深い。
スティーブ・ジョブズ
スティーブ・ジョブズ氏が亡くなった。
2011年10月5日。56歳。
生きている時から伝説の多い人だったが、これで本当に伝説の人になった。
氏というひとりの人間が人類社会に与えた影響は極めて大きい。
毀誉褒貶はあるだろうが偉大な人だったと思う。

ワタシが還暦過ぎた今こうした生活しているかなりの部分にPCがかかわっている。
PCが無かったらずいぶん寂しい生活になっただろう。
30年前にはこんな世界が来るだろうとは想像が出来なかった。
個人で写真のDPEが出来る、個人で編集が出来る、個人で印刷が出来る、個人で音楽アルバムが出来る、データをクラウドに置いておける、情報が世界中から取り出せる…。

アップル社にとって、氏はMr.アップルだったから
その不在は大き過ぎるほど大きいだろう。
良くも悪くもアップルは氏あってのアップルだったと言って過言ではなさそうだ。
株価の時価が世界一になって山の頂に立った。
氏のいないアップルに、あとは下山の道しか残っていない。



(※関連記事/2009年12月8日
蕪村の俳句力
もちろん俳句の源流を整備した芭蕉(1644-1694)の存在は巨大だ。
俳諧連歌などそれまであった俳句の前身的なものから、
独立性、芸術性を重視して「最短の詩」としての志を示した。

そういう先人がいなければ現在の俳句は無かった。
源流があってこそ次に続く芸術家が出て来るのだ。
そして続く者がいないと絶えてしまう。

蕪村(1716-1784)がいなかったら危なかったかも知れない。
蕪村こそ俳句のもうひとつの高峰なのだ。

さらに明治になって再興するのが正岡子規(1867-1902)。
俳句は誰にでも作れるという性質を持つために、絶えず初心に還らないとグズグズになり易い芸術でもある。


その魅力を示す蕪村の俳句を少し上げてみる。
あまりにも有名な句は敢えて除いた。

- - - - -

なのはなや昼ひとしきり海の音
等閑(なおざり)に香たく春の夕べかな
畠打つや鳥さえ啼かぬ山かげに
うぐいすや家内揃ふて飯時分
遅き日のつもりて遠きむかし哉
高麗(こま)舟のよらで過行(すぎゆく)霞かな
梅遠近(をちこち)南(みんなみ)すべく北すべく
椿落て昨日の雨をこぼしけり
古井戸のくらきに落(おつ)る椿哉
これきりに径(こみち)つきたり芹の中
しののめに小雨降出す焼野かな
帰る雁(かり)田ごとの月の曇る夜に
牡丹散りて打かさなりぬ二三片
愁ひつゝ丘にのぼれば花茨
ほととぎす平安城を筋違(すじかひ)に
いづちよりいづちともなき苔清水
草いきれ人死に居ると札の立(たつ)
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
泊る気でひとり来ませり十三夜
月天心貧しき町を通りけり
欠々て月もなくなる夜寒哉
温泉(ゆ)の底に我足見ゆる今朝の秋
父母のことのみおもふ秋のくれ
燈(ひ)ともせと云ひつつ出るや秋の暮
葱(ねぶか)買(かう)て枯木の中を帰りけり
うづみ火や我かくれ家も雪の中
易水にねぶか流るゝ寒かな
冬ざれや小鳥のあさる韮畠
二村に質屋一軒冬こだち
宿かせと刀投出す雪吹(ふぶき)哉
こがらしや何に世わたる家五軒
鍋敷に山家集あり冬ごもり
ぼた餅
現在のNHK朝の連続ドラマは
水木しげるの奥さん原作の「ゲゲゲの女房」。

それに付随して水木しげるの周辺スケッチ番組があった。
そこでの水木の述懐。
「金持ちになってもボタ餅を四つは食えん。やはり三つしか食えん」



ーーー
<起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半>という事だな。
ある日の羽生語録
将棋の世界で、若くして押しも押されもせぬ頂点を極めた人だ。
全七冠を独占したり、六冠で永世称号の資格を持つ。
そんな羽生善治がNHK-TV爆笑問題の番組(2010年4月27日放送)で発言していた。

「あの、けっこう例えば、将棋、例えばその、研究とか練習とかでやって、朝からやってあっという間に夕方になっちゃうんですよ。で、ホントにこれでいいのかと思う事ありますよ。ホントにこんな風に過ごしていていいのか、こんな事してたらあっという間に人生終わっちゃうと思いますよ、やっぱり」

天才にしてこんな述懐あり。
凡人も少し安心した。
92歳現役チンドン屋さん逝く
2010年3月16日菊乃家〆丸(しめまる)さんが逝去。
享年92歳。
現役チンドン屋さん。
14歳からチンドン屋の道に入ったとの事。
よくテレビに出て来る墨田区京島の商店街
「キラキラ橘」の裏ッ手に住んでいらっしゃった。
下町紹介のテレビ番組に良く出ていた。
少し前のローカル・サイトに逝去の情報が出ていたが
大手メディアに報道されないので半信半疑だったが
今日の朝日新聞夕刊に載ったのでホントだったんだ。
大手メディアも、掲載まで時間が掛かったな。

ワタシが現役サラリーマンだった頃、
帰宅時、都営地下鉄浅草線に乗るため
新橋駅ホームに降りて行くと、
ちょんまげのカツラをつけて、刀を差した侍がいるので
ビックラこいた。最初に見かけた時である。
あまりにも超現実的なので
アブナいおじさんと思って遠巻きにして近付かなかった。

結局25年通勤して見かけたのは2~3回だった。
紙袋を提げている時もあれば
ラジカセを持っている時もあったように記憶。
衣装は月代(さかやき)が伸びた浪人カツラと
ハデ目な着流しに落とし差し。
さすがプロだから周囲の目を気にせず平然としていた。
要するに商売衣装のまま、現地を往復するんですね。

下車駅はなんとワタシと同じ京成曳舟駅だった。
改札口を出たら右と左。
その頃は何者か知らなかったので
いつまでもワタシの脳内に?マークが点灯していた。
何者か知ったのはこの4~5年だ。

なにやら昭和がまたひとつ消えました。
おつかれさまでした。
『独りだけのウィルダーネス』
昔読んだこの本は、還暦のワタシにとって
<ノンフィクション本>の中でベスト5に入る本だ。

『独りだけのウィルダーネス/アラスカ・森の生活』
創元ライブラリ(文庫)(1,200円) 1996年6月21日初版
著者/リチャード・プローンネク 編者/サム・キース 訳者/吉川竣二

本

この本を知ってからは、
凡百のアウトドア本を見る目が違って来た。
“これぞ本物”を教えてもらった。

51歳の著者がアラスカ大自然のまっただ中に
丸太小屋を建てて過ごす。
今から見るとベタな設定ですが1960年代の話です。
わが国にはまだ「アウトドアライフ」という言葉は
入って来ていない頃の話。

ブッシュ・パイロットが操縦する小型飛行機で、
アラスカ山脈のツインレイクスの湖面にフロート着水する。
自分と荷物を下ろしてもらってその生活は始まる。

1968年5月~1969年9月の約1年4ヵ月、
父親の介助の都合で切り上げるまで
著者は至福の時間を過ごした。

読者もそこでの生活に引きずり込まれて
至福の時間を味わう事になる。

彼は丸太小屋を去るにあたってこう述懐する。
「ごらんのように、私の小屋のドアには錠が下ろされていない
(下ろしておきたい気持ちは強かった)。
こういったウィルダーネスの中に建つ小屋は、
それを避難の場として必要とする者がいつでも使えるように
オープンであるべきだというのが私の考えだからだ。
この小屋の使用料として私が要求するものはさして多くない
(それさえ順当とは認めない不心得者が一部に存在することを私は承知している)。
すなわち…道具類を使用する際には、
私がそうしたように大切に扱っていただきたいということ。
ここを立ち去る時には訪れた時と同じ状態にしていくこと。
このふたつを守ってさえいただければ、あなたは使用料を全額支払ったことになる」


ーーー

※ウィルダーネス(Wilderness)/未開の大自然
アーティストとスペシャリスト
こんな風に対比出来るだろうか。
先人の意見や個人的意見で下記のように上げてみた。

<アーティスト>         <スペシャリスト>
チャーリー・チャップリン    バスター・キートン
立川談志            古今亭志ん朝
スティーブ・ジョブズ      ビル・ゲイツ
本田(宗一郎)社長       藤沢(武夫)副社長
ジョン・レノン         ポール・マッカートニー

よく言われることだけど
ジョンは「方法は何でもいい、
とにかく目標に向おうよ」という感じか。
音楽は方法のひとつに過ぎない。

ポールは音楽が好きで好きでたまらない。
音楽イノチ、音楽こそすべての“ミュージシャン”。

ジョンとポールが化学反応を起こして
ビートルズは爆発した。

ビートルズが休止してその後のポールが生んだ曲は
いまひとつ気持が騒がない(少なくともワタシには)。
いつまでも歌唱力抜群だけど…。
顔が年取ったなぁ(仕方ないか)。

ジョンはジョンのやり方でマイペースの仕事を続けた。
そして1980年12月8日、ジョンの時間が止まった。
また、イチローの言葉
(2009年10月12日放映NHK-TV「おしえて イチロー」より)

イチローの言葉/
「重圧には弱いと思いますよ。まずね,何かこう、血の気が引いて行くんですよね、で、脈がどんどん変わって来て速くなる、しまいには吐き気を催すという順番なんです」

WBC2009年3月23日の韓国との決勝戦でのあの打席(延長10回、ツーアウト、ランナー1、3塁)。
イチロー

「僕だけの思いではない。全国民の思いがそこに詰まっている。こんなに重いものはなかった。こんな恐怖は過去に味わったことが無い」
ファウルで粘った後の8球目、打球が二遊間を切り裂いた。
「(今シーズン)いつも思い出してましたね。厳しいと感じる打席はあの瞬間が頭に何回も出て来ました。でもやっぱりあれより厳しい状況はなかったので…、そういう比較があるのがやっぱり強いですよね。
ま、恐怖…、プレッシャーが恐怖に変わる瞬間というのがあるんですけど、そういう状況になってもあの打席を打ち破った事が僕にとって大きな財産ですね」


―――

あのイチローでさえそんなんだから、われわれ凡人たちがアガルのは当たり前なんだって再認識出来ました。


(※イチローの前回記事は3月25日
昨日、写真展(久保田博二)を見る
久保田さんは現在70歳。マグナム・フォト所属。
1962年大学卒業と同時に単身NYへ行く。
アメリカ、ビルマ(現在はミャンマー)、中国を撮り続ける。
1枚1枚が重厚、いわゆるマグナムっぽい写真。
ボディにずしりと来るパンチのようである。
そしていかにも銀塩写真の風合い。
それぞれに、相当な苦労が秘められている事を実感する。
展覧


展示場所は芝浦フォト・ギャラリー・インターナショナル。
久し振りに通り掛ったJR田町駅の東側の道路が整然となっていた。
田町
スティーブン・ホーキング博士
イギリスの車椅子の理論物理学者(1942~)。

20代からだんだん筋肉が動かなくなる難病を発症し、
少しずつ身体の自由が利かなくなった。
話す事も出来なくなったので、
指が動いていた時はコンピュータにキーボード入力して
人工音声で意志を表していた。
それでも研究、講義、講演、執筆をこなしていた。
病気が進行すると指も使えなくなったので、
何をするにも非常に困難さが増したようだ。

今年4月、極めて深刻な状態で緊急入院とニュースに出た。

    *

使っているコンピュータはアメリカ製だそうで
「私の英語は、アメリカ訛りです」とジョークをかませる。

    *

さて、物理学者の彼の言葉。
「宇宙からみれば人類の滅亡は、
小さな惑星にできた化学物質の泡が消えるだけのこと」
幸田露伴「突貫紀行」
露伴(1867~1947)の作品は、今や現代人にとっては文章が難しくて、かなり忘れられつつある運命のようだ。知られているのはせいぜい「五重塔」の題名くらいだろうか。
時代の流れの中では文豪と言われた人でも歴史に埋もれそうなのは致し方ない。
娘の幸田文(1904~1990)さんの関連文章が無かったら完全に忘れられていたかもしれない。ワタシも文さんの想い出エッセイ「父-その死-」「こんなこと」などから露伴を知ったクチである。

それにしても幸田文、幸田玉、幸田奈緒の女系文筆三代(露伴から数えると文筆四代)はお見事。


* * *

露伴は江戸城表御坊主衆の家系。有職故実や漢籍などの知識をはじめ古今東西の博覧強記。
青年時、小樽に役所の電信技師として赴任したが、坪内逍遥の「小説神髄」や「当世書生気質」などから刺激され、辺境でくすぶる焦燥が押さえ切れなくなりとうとうプッツンした。

“とにかく東京へ戻ろう!”

露伴20歳の時である。
当時まだ鉄道は東京から福島県郡山までしか通じていない。したがって小樽から郡山までは徒歩である。
その時、屋外で露と伴に寝たこともあったことから「露伴」という筆名が出来たらしい。
(結局、職場放棄で免官になった)
その時の事を記したのが「突貫紀行」である。


ーーーーー

『突貫紀行』

<冒頭部分>
 身には疾(やまい)あり、胸には愁(うれい)あり、悪因縁(あくいんねん)は逐(お)えども去らず、未来に楽しき到着点(とうちゃくてん)の認めらるるなく、目前に痛き刺激物(しげきぶつ)あり、慾(よく)あれども銭なく、望みあれども縁(えん)遠し、よし突貫してこの逆境を出(い)でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李(こうり)の書を典し、我を愛する人二三にのみ別(わかれ)をつげて忽然(こつぜん)出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。

ーーーーー


余談。
露伴が隅田川東岸の東京府下南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区東向島)に住んでいた時の事、
府立七中(現在の都立墨田川高校)にまだ校歌がなく、
たまたま近くに住んでいた露伴が詞を書く事になった。
四つの詞を出来た順に、娘の文さん(当時20歳頃?)が校長室に届けたとの事。
一番から四番までの順番は学校に任せるとの事だったらしい。


露伴公園
この写真は寺島村時代三番目の住居地(東向島1丁目)の跡地にある小さな公園“露伴児童遊園”。
寺島村時代二番目の住居地にあった建物は明治村に保存されている。
この後(1925)小石川に引越す。
オレンジジュース
1993年から1994年にかけて、
ヨットで最年少単独無寄港世界一周をした白石康次郎(1967~)の言葉。
(当時26歳、日数176日)

「オレンジジュースは二度おいしい。
飲む時と吐く時です」



ーーー
<余談>
白石が“ヨットと人生の師”と仰ぐ多田雄幸(1930-1991)。
多田は個人タクシーで稼ぎ、
あとはヨットと音楽と酒を愛する男だった。
38歳でヨットを始め、
53歳の時、手作りヨットで世界一周レースを優勝。
その時のTV番組と本「オケラ五世優勝す」で、
多田の事を知った水産高校生の白石は、
東京駅の電話帳を見て多田の家に
いきなり電話して弟子になったと事。
酒を持参したのが気に入られたらしい。

多田の志を継いだ白石のヨットの名は「スピリット・オブ・ユーコー」

ヨット
伝説のコンサート
<須田鷹雄(競馬ライター)さんのPodcast話よりその要旨>
埋もれるのはもったいないイイ話なので記します。


ーーー

中央競馬でレース後のファンサービスでミニコンサートをやっている。
平成3年の有馬記念の日の中山競馬場特設会場。
御大の植木等を呼んで行なわれた。

(酔ったオヤジか、競馬に負けたオヤジか知らないが)
鬱屈したものを吐き出すように、
ステージに大きい声でヤジを飛ばすオヤジがいた。
百戦錬磨の植木等がうまく捌くのがさすがだった。
はからずも“特別ゲスト”とのトークショー的様相だった。
オヤジは少し経つと警備員に羽交い締めされて退場した。

最後の曲はいよいよ大ヒット曲の「スーダラ節」。

その2番の歌詞は…、
♪狙った大穴見事に外れ、頭カッと来て最終レース
気がつきゃボーナスぁ、スッカラカンのカンラカラ
馬で金儲けしたヤツぁ ねえよ
分かっちゃいるけどやめられねぇ
あホレ スイスイ スーダララッタ スラスラスイスイス-イ
スーラスィダララッタ スラスラスイスイスーイ
………

結局、場内大合唱で大盛り上がりだった。

ーーー
植田正治の写真展を見る

六本木

六本木の東京ミッドタウン・フジフイルムスクエア2F
「ーうえだ好きー 写真家・植田正治に捧げるオマージュ展」を見に行った。

写真に興味のある人ならみんな知っているはずの
植田正治(1913~2000)。
鳥取砂丘を舞台にした演出写真が有名。

とにかくモダン。
戦前の写真とは思えないほどモダン。
しかも東京ではなく郷里の鳥取に腰を据えたまま
斬新な写真を撮り続けた。

今のデジカメを使わせて上げたかった。
どんなふうに使うだろうか。
更なる「植田調」が確立されたかも。

「植田正治写真美術館」というのが
鳥取県伯耆町にあるとの事。
いつか行ってみたいものだ。