普段のズボン(その2) 昭和三十年代前後
「世の中スイスイ(粋々)、お茶漬けサクサク…」志ん生、志ん朝の噺に出て来るフレーズ。肩の力が抜けてあんにゃもんにゃです。~長い散歩の途中~
映画館「墨田文映」
墨田文映映画看板

“三丁目の夕日”時代に
曳舟川沿いで、東武の曳舟駅すぐのところに映画館『墨田文映』があった。
そこから数十メートルの斜め向かいには洋画専門の『オデヲン座』もあった。
やがてテレビが広まって、それまで娯楽の王様として親しまれて町の中に点在していた映画館は無くなった。

江戸時代、材木などの重量物の運搬には舟運が使われたので曳舟川の脇には材木屋が多かった。
その曳舟川も1955(昭和30)年に暗渠化されて“曳舟川通り”になった。
トーちゃん
1964年4月、高校に入学して、クラブはどこに入るか考えた。
たしか入部を促す歓迎会のような会が体育館で催されましたな。
各部が入れ替わり立ち替わりで勧誘のメッセージやパフォーマンスをやった。

ま、ワタシはなんとなくハンドボール部(送球部)に決めた。
1年生の新人は9人くらい集まったかな。
初顔合わせの時、A組のK村くんは老け顔で、高校1年なのに“おっさん顔”だった。
自然発生的に“父ちゃん”というあだ名が付いた。
2年になって下の1年坊主たちもK村の事を無遠慮に“父ちゃん”と呼んだ。
別段K村も嫌がらなかった。

彼は伊豆七島の新島出身。
野性味たっぷりで朴訥な性格。
身体は重戦車のようで脚にも剛毛が生えていた。
胸板も厚い。
ラグビー部が無かったのは惜しいくらいの身体だ。
しかし身体はゴツイが温和でおとなしい。
怒った顔は見た事が無い。

“速攻の練習”というのがある。
キーパーが遠投したボールを全力疾走していってキャッチし、
その勢いのまま相手ゴールにシュートをするという練習だ。
シュートが終わったらボールを拾ってまた元の所に戻り
同じ事を繰り返す。
合宿なんかだとそれが永遠に終わらないかと思うくらいに延々と続く。
しかも夏の炎天下。
「もう、いい加減に終わらないかな」と
監督の顔をチラッと見ると、全然止める気配が無い。
「あちゃ~」

ある冬の日、放課後の学校のグランドで練習していた。
その日、先生はいなかった。
われわれ2年生と下の1年生だけ。
3年生は受験で部活から退いている。
いつものメニューに従い練習を順に進めた。
そして速攻の練習の時だった。
遠投のボールを追いかける全力疾走のD組のK木と
シュートを終えて走って戻って来る“父ちゃん”がまともに正面衝突した。
「うわっ!!!」
両者グランドに倒れ込んだ。

K木は中肉中背で、どちらかと言うと“やさおとこタイプ”だろう。
あの“父ちゃん”とぶつかったんだから嫌な予感がそこにいた全員に浮かんだ。
みんなが一斉にK木の所に駆け寄り
「おい、大丈夫か!」

K木はショックで最初はうつろだったが少ししたら回復して来た。
どうにか自分で起き上がった。
「やれやれ、良かった」みんながホッとした。
生徒だけの時にけが人事故を起したらまずいもんな。
「良かった、良かった」

あ、そう言えば“父ちゃん”は?
みんなの意識がやっと“父ちゃん”の方に向かってそっちを見た。
なんと“父ちゃん”はグランドに倒れたまま唸っていた。
え~? まさか、そんな…。

“父ちゃん”はなかなか起き上がれない。
みんなでなんとか上体を起こしたが顔を歪めている。
そして肩と腕と左手親指を痛がる。
骨折が疑われるので近所の医者に二人付添いで連れて行った。
結果的に骨折はなかったが打撲と親指関節は脱臼だったようだ。

もののはずみというものは分からないもので
重戦車とやさおとこの衝突でも結果はその時次第という事ですね。

おとなになってから聞いたのは
いつの間にかB組のM野の妹と“父ちゃん”が結婚したというニュースだった。
あの不器用な男が、いつどこでそんな事になったのやら…、マッタク。

“父ちゃん”とは先日の呑み会でも会った。
実際の年齢が、昔からの風貌にやっと追い付いて来た“父ちゃん”であった。
ヒゲ面の熊おとこになっている。
昭和三十年代は遠すぎる(15)
東京タワーが昭和33年に出来た時のカラーリングが大展望台の所は赤だった。
そこが今は白になっている。
小学校の時の図画工作の時間に、完成したばかりタワーを描いたのでよく覚えている。


親たちは、特に女親は親戚の家に行ったり、
親戚が来たりした時に
きちんと畳に手を付いて平伏して他人行儀に挨拶していた。
けじめが身に付いていたんでしょう。


1964年の東京オリンピックで初めて「トリニダード・トバゴ」という国がある事を知った。


小学校には二宮金次郎の像があった。
この前テレビで見たのは二宮金次郎と小便小僧の合体で
金次郎さんが本を読みながらオシッコをしていた。


中学生の時、オープンリールのテープレコーダーを買って貰った。
東芝の「カレッジエース」という商品だった。
録音した自分の声の違和感に驚いた。


小学校の時、お昼の校内放送でちょっとしたドラマをやるのに
4~5人選ばれてチョイ役で出た。
放送部の先生がリーダーになりいろいろ指示を出した。
短いセリフしかなかったが初の体験。
あらかじめ録音して給食時間に放送されたが
自分の声が出たら、たまらなく恥ずかしかった。


わら半紙にガリ版。


女性の会社員の呼称が“BG”から“OL”になった。
女性誌『女性自身』の公募で決まり一般に定着した。


駅に伝言板(黒板)が有った。


アマチュア無線というのをやっている人がいた。
家に特殊なアンテナを立てていた。
いろいろグレードがあるようで、今でもかなり大きくて複雑なアンテナがある家をたまに見かける。


伝書鳩も趣味で飼っている人がいた。
新聞社も記事を伝書鳩で送る事もあったらしい。
新聞社にハト小屋があった。


食べてすぐ横になると牛になると言われた。


モスリン、キャラコなどという生地があった。
スフはもっと前か。
メリヤスはまだ現役か。


中学3年の時、晴海貿易センターのスケートリンクに行った。
同級生のT本くんと。
彼はお姉さんがふたりいて、何回も一緒に行って経験があるらしくかなりうまく滑る。
こちらは初めてなので大変苦労したが、1~2時間悪戦苦闘していたら
なんとか少しは滑れるようになって来た。
帰り支度をしていたら場内が騒がしくなって人だかりがしている。
イタリアの女優クラウディア・カルディナーレが映画の宣伝かなにかで来日したついでに
スケートの写真を撮影する企画かなにかで来たらしい。
まったく初めてらしくかろうじて立っているのがやっとだった。
でもにこやかに笑顔を振りまいていた。
トヨペット クラウン
大昔の懐かしいクラウンが走って来たが
カメラをちゃんと取り出すのも難しく
この写真が精々だった。

クラウン
昭和三十年代は遠すぎる(14)
子供の頃や二十歳前後の頃、内房の母方の田舎に行くと
帰りにたいてい魚の“クロムツ”を土産に持たされた。
煮物にするとおいしい。


早朝どこからか鶏の「コケコッコー」が聞こえて来た。
あ、そういえば幼児の頃わが家でもニワトリを飼っていた時期がある。
卵も産んだ。


テレビドラマ『三匹の侍』は斬新なカメラワークと効果音で画期的だった。プロデューサー五社英雄。
丹波哲郎:柴左近
平幹次郎:桔梗鋭之介
長門勇:桜京十郎
途中から丹波が抜けて加藤が加わる。
加藤剛:橘一之進
最高視聴率は42%だったそうだ。


軽飛行機はみんな「セスナ」と呼んでいた。


午後の気怠い時間に昼寝をしていると
ヘリコプターの音が聞こえる。
松田優作主演映画『家族ゲーム』でもそんな場面があった。


中村メイコの唄。
♪田舎のバスはおんぼろ車
タイヤはつぎだらけ窓はしまらない


子供の頃、外国人を見たら反射的に「アメリカ人!」と思っていた。


ウチの前は原っぱだったから凧揚げをやったが、
やっぱりいつも電線に引っ掛かった。


食べ物屋のカモイの角に板を渡して置かれたテレビのチャンネルは
客が勝手に変えないように回す部分が外されていた。


たしか小学校の頃、学校行事で映画『二十四の瞳』を観た。
主人公大石先生役は高峰秀子。


定斎屋(じょうさいや)というのが来た。
前後の抽斗箱を天秤棒で担ぐ。
江戸時代から抜け出て来たような風情。
歩く度に抽斗の鐶(カン)がカタカタ鳴る。
何を商っているのか子供の頃は知らなかったが
夏の暑さ対策の薬らしい。
昔父から聞いたが夏の暑い盛りに笠もかぶらずわざわざ日向を歩いて
「この薬を飲んでいればこのように暑さに負けない」とう所を見せているんだとの事。


いかけ屋が鍋の穴の修理に来たね。
らう屋(又はらお屋)も煙管の修理に来た。
押入れから漫画
子供時代の愛読誌『少年』と付録漫画。

漫画
昭和三十年代は遠すぎる(13)
あのころはご飯を食べている時に“ガリッ”として
混じっていた小さな小さな石を噛んでしまう事があった。
その後、精米が進化したからそんな体験も久しく無い。



昭和31年日本山岳会隊がヒマラヤのマナスル(世界8番目の8,163m)に世界初で登頂した。
その後の登山ブームのきっかけになった。



渡辺の『ジュースの素』、渡辺の『即席しるこ』
林家三平のCM、「お餅も入ってベタベタと、安くてどうもスイマセン!」
全然ベタベタしてなくて小さな煎餅が入っていただけだったなあ。



犬は放し飼いが多かった。



寝ている姿勢から起き上がる時に、片脚を振り子のように使って
その反動で上半身を起き上がる“ワザ”をおじさんたちはやっていた。
そう言えば最近見かけない。
『男はつらいよ』でおいちゃん役の森川信がその動作をよくやっていた。



冬などはおヒツのフタの上に猫が乗っていた。
ご飯を茶碗によそう時に猫が乗ったままのフタを持ち上げると重かった。



(テレビで見た)
昭和30年前後、大田区のある小学校の給食調理師の人が
インフルエンザで多くの児童が休み給食のコッペパンが残った。
当時休んだ子にもパンを届ける制度だった。
時間が経つと当時のコッペパンは固くなっておいしくない。
なんとかおいしくならないか。
その人は揚げてみて、そこに砂糖をまぶした。
「こりゃいい」
全国給食コンクールでも評判になり全国に広まった
揚げパンの誕生だ。



「英語」の先生が、遠足などで外国人などに遭遇して
生徒たちに会話を強要されて
会話が通じなかった日にゃ、たちまち株価暴落。



チンパンジーがコマーシャルをやっていた「バヤリース」は飲みたかった。
声は谷啓。



昔に比べるとボーイスカウト(ガールスカウト、カブスカウト)ってあまり見掛けなくなった。



商品にやたらアルファベットを使う事があった。
当時、列車の車内販売で買ったのは「OTSUMAMI」。
だれのためのアルファベット表示かいな。
※ただし最近は日本語のまま海外で通用する単語も増えたらしい。
このあいだテレビで見たがスペインで売られている人気食品で
「カニかま」が“SURIMI”という商品名で売られていた。
昭和三十年代は遠すぎる(12)
おじさんたちは耳にタバコを挟んでいた。
耳穴にコイン(百円玉など)を嵌め込んでポケット替りにしているおじさんもいたな。



小学校の頃入り浸っていた親友の家でよく遊んだ。
野球盤、コピットゲーム、回り将棋、積み将棋(詰め将棋ではない)。
その家の庭にイチジクの木があってよく登った。
犬がいてワタシにもよくなついていた。



地下鉄丸ノ内線の今の「銀座駅」は1964(昭和39)年の夏まで『西銀座駅』という名前だった。
後から日比谷線の「銀座駅」が出来て銀座線「銀座駅」も地下で繋がったので「銀座駅」に統一したんだね。
都営浅草線は地下で繋がっていても「東銀座駅」のまま。組織が違うから。



新聞折り込みチラシの裏が白いままだったから切ってメモ用紙にしたもんだ。
今はほぼ全部が両面印刷だからメモ用紙にはならない。
たま~に片面印刷の広告チラシを見掛けると「うわ、珍しい!」。



乾燥芋をおやつにしたな。



銀座8丁目のリクルート本社の場所は、
その前はキャバレー太郎の店『銀座ハリウッド』だった。



当時ウチで売っていた納豆は経木で三角形に包んであった。
藁苞(わらづと)で包んだ納豆もあったが、そっちは少し高かったような気がする。



夏休みはラジオ体操。
6:30寝ぼけマナコのまま近くの神社に行ってラジオから流れる音楽に合わせて…。
終りに首から掛けたカードにハンコを押してもらう。
それから夏の暑い一日が始まった。



暗くなるまで遊んでいると“人さらい”が来るよと脅された。
言う事を聞かないで聞き分けが悪いと
「お前は四ツ木橋の下で拾ってきたんだから、また捨てて来るよ」と脅された。



小学校くらいの頃、メートル法が浸透して来た。
それまでは何匁(もんめ)なんてやってた。
足袋は文(モン)。ジャイアント馬場は16文キック。



当時、餅は正月だけの食べ物だった。
すぐには食べきれないので黴ないように水餅にした。
それでも長い日数は難しい。
カビた部分だけ削って食べた。
本当は黴の菌糸が深く浸透していただろうから、
今から思うと「いかがなものか」的処置だったのだろう。
*
あまりにも有名な話だが。
「彦六師匠、餅ってどうしてカビるんでしょうねえ」
「ばかやろう、早く食わねえからだ」
昭和三十年代は遠すぎる(11)
「五千円紙幣」の使用開始は昭和32年から。
「一万円紙幣」の使用開始は昭和33年から。


セスナから広告ビラが撒かれた。
ヒラヒラひらひら空中を舞ってゆっくり落ちて来た。
それを自転車で追いかけて拾いに行った。
今じゃ考えられない。


近所に南竜館という映画館があってそれなりに行った。
当時の日活映画のスターたちは印象が強い。
宍戸錠、小林旭、石原裕次郎、川地民夫、二谷英明、和田浩治、葉山良二、浅丘ルリ子、笹森礼子、赤木圭一郎…。
二谷英明がたいてい良い人の役。
最後の最後に二谷英明が密輸組織に潜り込んでいた海上保安官だった事が分かったりして、めでたしめでたしで終わる。
川地民夫と言えば日活退社後、東映に多く出演。
東映映画「まむしの兄弟」シリーズで菅原文太の弟分役を軽妙に演じていて、
往年の池袋文芸坐の深夜映画では、川地が映ると「川地! よしッ!」の声が飛んでいた。
(何が“よしッ!”なんだか)


初めて買ってもらった超初心者向けカメラが「フジペット」。
東京ミッドタウン(六本木)のフジフイルムスクエアに昔からのカメラが展示してあり、
そこでそれを見つけた時は懐かしかった。


日本テレビで『ホイホイミュージックスクール』という番組があった。
タレント発掘番組のハシリ。
司会は鈴木やすしと木の実ナナ。
ふたりとも水兵帽を被っていた。
WEB検索すると番組名には「味の素」の冠が付いていた。
この時ドリフターズが初のレギュラー出演で伴奏を受け持っていたとは。


われわれより下の世代の男子たちは、やたら『ガンダム』に思い入れが強いようだ。
ワタシは『ウルトラマン』も微妙に世代がズレていて特に思い入れは無い。
やはり同時代だったのは『鉄腕アトム』であり『鉄人28号』だった。


定期テストが終わった日にはたいてい映画に行った。
テアトル東京の大画面で「ベン・ハー」か「アラビアのロレンス」を見たのもそんな時だったような。


昭和46年だけど、何を思ったか作家の深沢七郎が
東武の曳舟駅のすぐ近くに今川焼の『夢屋』を出した。
開店の時買いに行った。
本人がいて手渡してくれた。
当方が長髪だったので「これも上げよう」と
横尾忠則が夢屋のために作ったポスターもくれた。


ウチの店では鯨のベーコンを売っていたが
そもそもクジラは“代替品”だと大人になってから知って愕然とした。
外側のあの毒々しい赤色、ギトギトした脂身。
だけどねタラコだって赤く着色してあるのヨ。
着色してないタラコは誰も買わない。


浅草に行くと人形焼がおみやげの定番だった。


昔は映画館で、映画の合間に短いニュース映画が上映された。
“パラマウントニュース”などのナレーションは独特な抑揚の竹脇昌作。
「竹脇昌作がお送りしました」と締めくくられた。
“竹脇節”とも“マダムキラーボイス”とも言われた。
(マダムキラーって死語だね)
特徴的だったので昔はよくモノマネされた。
俳優竹脇無我のご父君。無我さんももう冥府の人になっている。
ウィキペディアを見たら、当初NHKに入局したがわずか1ヵ月で退職したとの事。
個人的勘ぐりだが、もしかしたら独特の抑揚が原因か。
『…アメリカぁ、フロリダ州のケープカナベラル・ロケット実験場からぁ
リスザルを乗せたジュピター13号機が発射されましたぁ』


日曜の朝、細川隆元と小汀利得の「時事放談」。
昭和三十年代は遠すぎる(10)
われわれが小さい頃は“満”でなく“数え”だったから
元旦でみんな一斉に歳を取った。


船橋ヘルスセンターにはよく行った。
靴をビニール袋に入れて持ち歩いた。
ローマ風呂だとか、香水風呂だとか、ナントカ風呂だとか
とにかくお風呂からお風呂に渡り歩いたものだ。


小学校の頃の運動会や学芸会などの校長先生の挨拶で
「皆さんがマチニ待った日が来ましたね」を
「町に待った」と解釈してワタシの小さな頭はどういう意味かなと思っていた。
中学の時の生徒会の集まりで、
誰かの発言に「グタイ的に言うと…」とあり、
ワタシは「舞台的に」と解釈してどういう意味かなと思った。
“具体”という抽象概念を理解出来ていない未発達な子供だった。


「紙石鹸」ってのがあって、小学校時代女の子たちが使っていた。
いい匂いの消しゴムもあったが、消しゴムとしての性能は普通の消しゴムの方が良かった。
「ボンナイフ」は中学校時代にみんなが持っていた。


小学校の頃の社会科見学で当時豊洲にあった東京ガス工場に行った。
ガス臭かったのが印象に残っている。
今そこは築地から移転する新しい中央卸市場の建設中。


i以前ラジオで聴いたが、
横綱吉葉山が当時業平時代の中華『五十番』に食べに来て、
王貞治に「坊や、いい身体してるな相撲に来ないか」と言われた事があるそうだ。
中学時代の王クンは痛いのが嫌いだったので断った。
「まあ、横綱は冗談半分、本気半分だったですね」と言っていた。


“スピッツ”ってやたら吠えてうるさい犬だった。
今は見掛けない。
その後「名犬ラッシー」の影響で“コリー”ブーム。
コリーを見るとみんな「ラッシー、ラッシー」と言った。


当時の魚肉ソーセージってマグロ(+クジラ)が原料だったんだって。
信じられない。
今ほどマグロの価値が高くなく練り物に使われていたなんて。
30年代後半から白身魚の冷凍すり身が原料になった。
ちなみに魚肉ソーセージは日本発祥。
当時1本30円。卵は10円、コロッケ5円。


紙芝居のおじさんが回って来た。
空き地に自転車を止めて、太鼓または拍子木を叩いて近所をひと回りして知らせる。
子供たちが集まって来ていろいろ買う。
水飴、ソースせんべい、ヌキ(型抜き菓子)。
名前が分からないが四角なお菓子を、丸く繰り抜いてコインを通せたら何等とか。
細長いビニール袋に入ったゼリー。梅ジャム。


校門脇に粘土の型屋が来た。
型に入れた粘土を抜いて出来を比べる。
何日か連続して来て出来栄えを批評したりして
ステップアップを促し上級の型を売る。
頃合いを見計らい来なくなる。


昭和40年代だが、キックボクシングの
沢村忠の真空飛び膝蹴り。


今の渋谷ヒカリエがある所に東急文化会館があって、
そこの五島プラネタリウムに学校行事で行った。たしか小学校時代。


「みゆき族」ってのもいましたね。
“VAN”や“JUN”の紙袋やズダ袋を抱えてみゆき通り周辺にたむろしていた。
ウィキペディアで見ると東京五輪前のわずか半年の社会現象。
時代が生んだカルチャーなのかアダ花なのか。
昭和三十年代は遠すぎる(9)
校門の近くに必ず文房具屋があったね。



やたら「数の子」を有り難がった時代がある。
すごく値段が高くて黄色いダイヤとも言われた。
でもそれほどおいしくない。



スルメを焼く時は丸まって焼きにくい。



ダイハツの三輪「ミゼット」が大ヒット。
最初はバイクと同じバーハンドルだったが
その後丸ハンドルになった。
『やりくりアパート』で大村崑と佐々十郎がナマCMしてた。



鏡里、吉葉山、名寄岩、栃錦、若乃花、大内山。
人間起重機・明武谷、
内掛けの名手・琴ケ濱、
潜航艇・岩風、
褐色の弾丸・房錦。
川上、別所、藤尾、坂崎、宮本、与那嶺。
ファイティング原田。



遠足で買った“ペナント”を部屋の壁に貼った。
“木刀”を買ったやつもいる。



ふりかけのロングセラー、丸美屋の「のりたま」は昭和35年販売開始。
漬物のロングセラー、東海食品の「きゅうりのキューちゃん」は昭和37年販売開始。
マルシンの「ハンバーグ」も昭和37年販売開始。



ズルチン、サッカリン、チクロ。
駄菓子も毒々しい着色が多かった。



ちょっと時代が下がるが早野凡平の「帽子芸」はおもしろかった。
帽子の穴に片足入れて「パンツの片っ方」。
足を入れ替えて「もうひとつの片っ方」。


ダッコちゃん、フラフープ、ホッピング。


“おフランス”帰りのイヤミが「シェ~」をすると
靴下が半分脱げ掛かっていた。



戦前から戦後、
浪曲の「次郎長もの」で一世を風靡した広沢虎造(二代目)は
声量が小さいというのがデビューした当時の評判だったらしい。
到底大成しないだろうと思われていた。
ところがマイクを通して拡声する時代が到来し、
その欠点が補正されて超大ブームが来た。
♪旅ゆけばぁ~、駿河の道ぃに茶の香り 流れも清き太田川
若鮎踊る頃となる 松の緑の色も冴え
遠州森町良い茶の出どこ 娘やりたやお茶摘みにぃ
―中略―
♪昭和の御代まで名を残す、遠州森の石松を不弁なぁがぁらぁもぉ努めましょう。
「江戸っ子だってねえ」
「神田の生まれよぉ」
「そうだってねえ、寿司食いねえ、酒を呑みねえ、もうちょっとこっちぃ寄んねえ。おめえさんバカに気に入った。次郎長ってのはそんなに偉えかい?」
「“かい”とか“だろう”は人を疑うよ。次郎長は海道一の親分だ」
「そうかい、これから伏見に着いたらお前さんを二晩借りうけて祇園の町でご馳走しようじゃないか」
「だけどね親分ばかりが偉いんじゃないよ。古来人の上に立つにはいい軍師、話相手、番頭役が必要だ。次郎長にはいい子分がいるぜえ」
「ありがてえ、もうそろそろかなと思ってたんだ。お前さん詳しそうだから聞くんだけど、兄弟(あにおとうと)の貫禄は問わねえ、子分の中で一番強ぇのは誰だい?」
……ここからがいい所なんだけどキリがないから止める。

<F島>
昭和三十年代は遠すぎる(8)
当時は「東洋一の~」という形容詞がよく使われた。
「世界一」はなかなか手が届かなかったのだ。



給食で「揚げパン」が人気があったな。
あと「シチュー」もおいしかったね。
脱脂粉乳のミルクを「まずかった」という意見が定番だけど
ワタシはそんなでも無かったと弁護したい気持ちがある。



中学校の頃、問屋のおじさんに連れられて、
当時南千住にあった「東京スタジアム」にナイター見物に行った。
大毎オリオンズ対東映フライヤーズ。
この球場は「永田ラッパ」の大映永田雅一社長が作った。
交通が不便だったのとパリーグは人気がイマイチだったので
累積赤字が積り短命な球場だった。
左中間、右中間の膨らみが無いのでホームランが出易かったが
付帯設備は当時としては最先端でその後の球場の手本にもなったらしい。
今は荒川総合スポーツセンターや南千住警察署などが建っている。



最近の電信柱は金属に変わりつつある。
今まではコンクリートだった。
その前は木製だった。
クルマがコスルので保護の金属板が付いていた。
コンクリート製にも保護板は付いている。



小学校入学式の集合写真の時はフラッシュではなく
マグネシウムをボワッと焚いたね。



バイクの荷台の「出前機」は1950年代中頃、都内の蕎麦屋さんの発明。



ワタシが小学生の頃、父と浅草のお酉さま(大鳥神社)に行ったことがある。
まだ浅草が日本一の盛り場だった余韻が残っていた時代で
まあその群衆の凄まじさと言ったらなかった。
とにかく迷子にならないようにギュッと手を繋いで流れに身をまかせた。
どういう道順で、行って帰って来たのか人混み以外全く覚えていない。



お盆が終わるとお供え物の胡瓜の馬と茄子の牛などを
下敷きの筵で丸めて四つ木橋の上から川に流した。
川を汚すのでその後禁止になった。



1964年の東京オリンピックの開会式で秋晴れの空に五輪マークを見事に
描いたブルーインパルスは、練習の時に1回も成功していないんだってね。
本番で奇跡的に成功した。



即席ラーメンが出始めた。
熱湯を掛けて3分、画期的だった。
画期的だったけどなんか不完全だった。
不完全だが画期的という商品だった。



冷蔵庫は氷で冷やした。氷屋さんが配達に来た。
大きなノコギリでザクザクザクザクと途中まで切って最後はコツンと割る。
1貫目、2貫目が単位だった。



ルービック・キューブが大いにはやった時があるが
ワタシは一度も完成した事がない。



洗剤に“おしゃれ小鉢”が付いて来た。
“金銀パール”プレゼントというのもあった。
“♪カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂”
上原ゆかりの
♪マーブル、マーブル、マーブル、マーブル、マーブルチョコレート。
昭和三十年代は遠すぎる(7)
昭和三十年代、そろばん塾に通う小学生が多かった。
ワタシも通った。
日商の珠算検定試験には塾の先生が引率して神保町の専修大学に都電で行った。



三浦洸一(踊子)、白根一男(青春は雲の彼方に)、曽根史朗(若いお巡りさん)、神戸一郎(十代の恋よさようなら)、藤島桓夫(月の法善寺横丁)、青木光一(柿の木坂の家)、若原一郎(おーい中村君)、小坂一也(青春サイクリング)、春日八郎(別れの一本杉)、三橋美智也(哀愁列車)、三波春夫(大利根無情)、コロムビア・ローズ(東京のバスガール)、美空ひばり(港町十三番地)、…。
(※こうやって見ると数字が入った芸名が多い。なにかジンクスでもあったのか)



夜店の灯りはアセチレン・ランプ(カーバイド・ランプ)だった。
独特の匂い。



中学校の数学(「技術・家庭」だったかな)の時間に「計算尺」を習った。
アナログで近似値しか出ないがそれでも充分な道具だった。
魔法のように答が出た。
パソコンはおろか電卓さえなかった時代には極めて便利だ。
映画『博士の異常な愛情』(1964年)で、
国防省作戦室の中のストレンジラブ博士も計算尺を使っていた。
幕張の「宇宙博2014」に行った時もアポロ宇宙船の中で使っていた計算尺が展示してあった。
直線タイプと円形タイプがある。
(ネット検索したら「ヘンミ計算尺株式会社」という日本の会社が1965年当時、日本の98%、世界の70%のシェアだった。現在もその会社は精密機器製造に転換して存続。計算尺自体は1975年に製造終了したが未だ在庫のみ銀座伊東屋で販売されているそうだ)



小学校の当時の運動会では靴でなく“はだし足袋”というのを穿いた。
簡便なものなので一日しかもたない。




ゴルフ場
小学生時代、級友のお父さんが級友と一緒に伊東のゴルフ場に連れて行ってくれた。
その人は町工場の社長だった。
もちろんワタシたち子供は付いて回るだけ。
途中、列車の窓を開けて駅弁を買ってくれた。
ついでに小さな土瓶に入ったお茶も。
あのちっちゃな土瓶は、「峠の釜飯」の土釜と同じように可愛くて捨てにくい。
あれもいつの間にかプラスチックの急須になった。
今はペットボトル全盛で、もうプラ急須も無いだろう。
弁当の蓋の経木に付いたご飯粒はもちろん剥がして食べた。
似ている食べ方はカステラの下に付いている半透明の紙。
そこに付いている甘いカラメル状のものを歯でこそげ落して食べる。
上品とは言えないがあそこがウマイんだからしょうがない。



乾物屋をしていた父が卵を数える時や穀物を升で量る時の数の数え方。
「ひとひとひとよ、おーふたおーふた、おーみちょおーみっちょ、おーよっつだおーよっつ、…、…、とーいッとな」

昭和34年頃だったと思う、住まい兼店舗の自宅を建て替えて
改めて開店セールをしたが、その時はチンドン屋を頼んだ。



ジャンケンの“掛け声”問題。
“ジャン、ケン、ポン”が一番ノーマルだろうけど、
ワタシたちが子供の頃の東京の東部のジャンケンでの掛け声は
“チッ、ケッ、タ”または“チー、ラッ、セ”だった。
女の子たちは“ジャンケン、じゃがいも、北海道”。
アイコだと“北海道、北海道、北海道…”と続いた。
“最初はグー”などという掛け声は影も形も無かったから、昨今のは違和感あり過ぎだ。
今やほぼ百%この掛け声が行われているようで、いやだなあ。
出所はドリフの番組で志村けんがやり始めて全国を席巻してしまったようだ。



シャープ兄弟、ルー・テーズ、ジェス・オルテガ、ボボ・ブラジル、ラッキー・シモノビッチ、キラー・コワルスキー、バッドニュース・アレン、沖識名(レフェリー)、…。



昭和34年の伊勢湾台風では死者・行方不明が5,000名超だった。



今でもアナウンサーが、「思い出が“走馬灯”のように蘇る…」などと言うが、
今の若い人に“走馬灯”が通じるのだろうか。



三木鮎郎がやっていた『スター千一夜』というTV番組に
先代中村勘三郎(十七代目)が出ていて、インタビューをいろいろ受けている間に
まだ幼児だった勘九郎が飽きちゃってスタジオのあちこちを動き回っていて、
親の勘三郎が目を細めていた。
その勘九郎が勘三郎(十八代目)になり歌舞伎界を引っ張る存在として縦横無尽だったが、
志半ばに逝ってしまった。
昭和三十年代は遠すぎる(6)
『0011ナポレオン・ソロ』諜報組織“アンクル”の入り口はクリーニング屋にカモフラージュしてある。万年筆型の通信機で呼びかける「衛星通信、チャンネルDオープン」。
https://www.youtube.com/watch?v=916uXOZb-DA

『0012捕虜収容所』
『アウター・リミッツ』
『アダムスのお化け一家』
『アニーよ銃をとれ』https://www.youtube.com/watch?v=HqKPBvwWCt8&list=PL23950A5DA1DB15F0&index=10

『アンタッチャブル』
『うちのママは世界一』
『ウッドペッカー』
『エド・サリバンショー』
『奥様は魔女』奥様はサマンサ、その娘はタバサ。ファッションブランド“サマンサ タバサ”のネーミングは偶然としているがホントかねえ。
『鬼警部アイアンサイド』車椅子の刑事部長役のレイモンド・バー(声優は若山弦蔵)。
『怪傑ゾロ』
『ガンスモーク』
『刑事スタスキー&ハッチ』
『警部マクロード』主役デニス・ウィーバーはスピルバーグ監督の「激突」でも主役だった。
『ケーシー・ジョーンズ』SLの運転士の話。
『拳銃無宿』賞金稼ぎの西部劇。若き日のスティーブ・マックィーンが主役。これでマックィーンはスター街道を駆け上がる。
『コンバット』「チェックメイトキング2、こちらホワイトロック、どうぞ」サンダース軍曹、ヘンリー少尉、リトルジョン、カービー、ケリー。
『サーフサイド6』
『ザ・モンキーズ』
『サンセット77』
『三ばか大将』石頭のカーリー、カラ威張りのモー、ポンコツのラリー。
『じゃじゃ馬億万長者』♪そうこさ突然湧いて出た、金の卵の石油井戸、俺達ゃたちまち金持ちさぁ。
『ジャングル・ジム』https://www.youtube.com/watch?v=ShU-vbwtb3o&index=3&list=PL23950A5DA1DB15F0

『スーパーマン』「遠い星からやって来た奇跡の男。彼はメトロポリスの新聞社デーリー・プラネットの記者となって、正義と真実を守るため日夜戦い続けているのです」
『スパイ大作戦』「…その際、キミもしくはキミのメンバーが拉致され殺されても当局は一切関知しないからそのつもりで。では健闘を祈る。なおこのテープは自動的に消滅する」
『西部二人組』
『潜水王マイク・ネルソン』
『ソニー号空飛ぶ冒険』または『ヘリコプターの冒険』ソニーの提供だったからな。
『それ行けスマート』007など一連のスパイ映画のパロディ。
『タイムトンネル』
『ちびっこギャング』スパンキーとアルファルファ。
『突撃! マッキーバー』
『ディズニーランド』
『テケテケおじさん』
『出てこいキャスパー』かわいいお化けのアニメ。これが無ければ「オバQ」は生まれなかっただろう。
『凸凹劇場』アボットとコステロ。
https://www.youtube.com/watch?v=EZaOhMk1r5I&list=PL23950A5DA1DB15F0&index=16

『逃亡者』リチャード・キンブル。
『ドビーの青春』
『バークレー牧場』
『ハイウェー・パトロール』
『パティ・デューク・ショー』
『パパは何でも知っている』米国の典型的な中流家庭アンダーソン一家。パパはジム、ママはマーガレット、3人の子供は長女ベティ、長男バド、末っ子キャシー。バドの級友でちょっと不良っぽいのがラリーじゃなかったかな。
『ハワイアンアイ』
『ハワイ5-0』
『ビーバーちゃん』
『ヒッチコック劇場』
『フライマン』スーパーマンのパロディ。
『ベン・ケーシー』医者ものの原型。「♂、♀、+、*、∞」
『弁護士ペリー・メイスン』
『保安官ワイアットアープ』
『冒険野郎マクガイバー』
『ボナンザ』
『炎のテキサス・レンジャー』
『ポパイ』オリーブ、ブルート、ほうれん草。
『ミスター・エド』♪おだまりエド、しゃべるなエド、何処かで誰かが聴いているゥ。
https://www.youtube.com/watch?v=y_PZPpWTRTU&list=PL23950A5DA1DB15F0&index=35

『ミステリーゾーン』
『胸に輝く銀の星』
『名犬リンチンチン』オハラ軍曹、ブーン伍長。ネット検索すると初回の題名は「ハリス少年と名犬リンチンチン」。スポンサーがハリスガム。そういうガムがあったな。
『名犬ラッシー』当時コリーを見たら「ラッシーだ」と言ったもんですな。
『モーガン警部』
『ライフルマン』ライフルをあんなにクルクル回すなんて。
『ラット・パトロール』
『ララミー牧場』https://www.youtube.com/watch?v=CZPUcPwYQNg
『ルーシー・ショー』
『ルート66』
『ローハイド』「おーい、ウィッシュボーン、うまい飯が出来たかぁ?」「フェーバーさん、いつアッシがまずい飯を作った事があるってんですかい?」
https://www.youtube.com/watch?v=m6BXvWwAa48

『ローンレンジャー』
『ロビンフッドの冒険』
『わんぱくデニス』
『わんぱくフリッパー』



※戦後の親米化教育のためコンテンツがタダで提供されたという話があるが真偽は知りません。
※多少時代が前後しているかも知れないがご容赦。



(※前回記事/2015年3月8日
昭和三十年代は遠すぎる(5)
番組はなんたって『チロリン村とくるみの木』だなぁ。
ピーナツのピー子ちゃん、くるみのクル子ちゃん、もぐらのモグモグさん。
 ♪ランラン、チロリン、野菜村。うれしい村だよ、とぼけ村。


『お笑い三人組』も
 ♪アッハッハ、ウッフッフ、エヘヘのオホホでアハハのハ、ぼくらはお笑い三人組。
当時の番組は生だから、時間が押して来るとこの最後の歌はやたらと猛スピードになった。



『夢で逢いましょう』
『事件記者』
『私だけが知っている』
『若い季節』
『私の秘密』高橋圭三アナ。
『ジェスチャー』小川宏アナ。
『バス通り裏(十朱幸代)』
『ブーフーウー』
『魔法のじゅうたん』黒柳徹子はこの頃から第一線を続けている。
『ものしり博士』「(子供たちの声)ケペル先生今晩は~」「(熊倉一雄の声)やあ、今晩は。元気かね? 何でも考え、かんでも知って、何でもかんでもやってみよう。さてきょうは…」


『三太物語(おらぁ三太だ)』
 ♪おらぁのウチは水車小屋、大の仲良し四人組。
三太役の渡辺篤史は今や建物探訪のオーソリティ。花子役のジュディ・オングも大物になった。


ちょっとシブい所で『ホームラン教室』
 ♪ぼくらは町の子、元気な子、空を仰~げばテレビ塔。
主人公の少年(あだ名がアンパン)役は小柳徹、その父役は牟田悌三。古賀さと子も出ていた。
小柳徹は20歳の時自分の運転する自動車で事故死した。
ここでいうテレビ塔はワタシの記憶では名古屋のテレビ塔だと思っていたがNHKのホームページ資料を見ると東京タワーだとしている。
NHKのホームページに問合せのメールを出したが、東京タワーで間違いないとの返事があった。
なぜ記憶の取り違えがあったか不明。


『やりくりアパート』
『番頭はんと丁稚どん』
『とんま天狗』
『スチャラカ社員』
『ごろんぼ波止場』
『てなもんや三度笠』俺がこんなに強いのもあたり前田のクラッカー。
 ♪街道名物ご存知ないか、チビとノッポの二人連れ~。顔の長さは違っていてもなぜか気の合う、なぜか気の合う馬が合う。


『月光仮面(大瀬康一)』♪ど~この誰かは知らないけれど、誰もがみ~んな知っている。
『ありちゃんのおかっぱ侍(有島一郎)』
『おトラさん(柳家金語楼)』
『右門捕物帖(中村竹弥)』
『琴姫七変化(松山容子)』
『日真名氏飛び出す』
『ダイヤル110番』
『咲子さんちょっと』
『兼高かおる世界の旅』
『二十世紀』
『デン助劇場』スミちゃ~ん。
『七人の孫』
『ロッテ歌のアルバム』一週間のごぶさたでした。
『ズバリ当てましょう!』
『アップダウンクイズ』
『ダイビングクイズ』
『がっちり買いまショー』
『何でもやりまショー』金原アナウンサー。バヤリースのチンパンジーCM。
『大正テレビ寄席』
『シャボン玉ホリデー』
『プロレス中継』
『ヤン坊マー坊天気予報』
『素浪人月影兵庫』脇役で焼津の半次。途中からコミカル路線が強くなり過ぎ、原作者の南條範夫からクレームが来たのでタイトル変更して『素浪人花山大吉』。月影兵庫そっくりの花山大吉という別人(演者は二役の近衛十四郎)にシリーズ途中に入れ替わるというアバウトな設定。品川隆二扮する焼津の半次が大いに戸惑うというシーンで繋いだ。
『三匹の侍』これはちょっと時代が新しいか。


昔のラジオでは番組中に掛けた曲のレコード会社をいちいち読み上げていた。
著作権使用料がらみの件。
いつの間にか言わなくなったと思ったら、
利用料をその都度個別でなく、一括総額で「年間いくら」と言う風な契約に変ったらしい。


※多少30年代と違うものもあるかも知れないが、前後という事でご容赦。



(※前回記事/2014年8月26日
昭和三十年代は遠すぎる(4)
トロリーバスが走っていた。
道路の上に張り巡らされた架線から、車体のポールを通じて電気を取る。
たまに架線からポールが外れてしまう時があるが、
車掌が降りてポールに付いているロープで引っ張って架線に嵌め直す。
ポールを架線に接触させる時にバチバチと火花が出た。
トロリーバスはみんな男の車掌だった。


普通の乗り合いバスはボンネット型だった。
車内には女性の車掌さんがいた。
揺れる中で倒れないように足を踏ん張りながら切符を売っていた。


今のように交通信号が全部の交差点に有ったわけではないので、
真ん中に交通警官が立つ台を置いて「手信号」で捌いていた。


カメラがフイルム式だったので「まだ枚数が残っているから」となかなかDPE屋に行かず、
春に撮った写真が秋に出来上がるなんて事が有り勝ちだった。


『少年』という月刊漫画雑誌を毎月読んでいた。
「鉄腕アトム(手塚治虫)」「ナガシマくん(わちさんぺい)」「鉄人28号(横山光輝)」「矢車剣之助(堀江卓)」「ストップ!にいちゃん(関谷ひさし)」「サスケ(白土三平)」などが連載されていた。
本誌の他に別冊付録がたくさん付いていた。


エレベータに乗るのはデパートに行った時くらい。
特に下りる時は胃のあたりが気持ち悪くなるような“降下感”が有った。
今のエレベータで感じないのはエレベータ自体に技術革新があったのか、
ただ単におとなになったからなのか。
同じような事で、なんかの拍子にタクシーに乗った時、
当時の道路は凸凹で、その段差でひゅっと“降下感”に見舞われると
ゾワゾワとミゾオチが気持ち悪くなった。


昔の町の映画館はだいたい「3本立て」。
フイルムを近くの館と共同で使い回すので上映が済んだ分から
次の上映館に自転車で運び屋が運ぶ。
長い間には「次のフイルムがまだ届かない!」なんて綱渡りの危機があったんじゃないだろうか。


銭湯で、今はロッカーになったが昔は“衣類籠”だった。
衣類を竹籠に入れて板の間の隅に置くだけだった。
銭湯で越中フンドシや六尺フンドシをしているおジイさんを
以前は見かけたがさすがにもう見ない。
(東京の銭湯は7月から460円になる見込み。現行450円)


小学校の頃集団で注射をする時、1本の注射器で5人位打ったね。
今の基準だと危なかった。
昔は注射器も針も煮沸消毒して使っていた。
今は全部一回こっきりの使い切りでしょ?


仕事帰りの“おじさん労働者”が酒屋でちょっと一杯。
酒屋のオヤジが樽の口から升(またはコップ)に注ぎ、
終わるとキュッと木の栓を閉める。
フトコロが許せばシャケ缶をつまみに。
缶ビール自販機もワンカップも無かった時代。
そういう酒屋での立ち呑みを“角打ち(かくうち)”と称するとは
オトナになってから知った。


昭和32年、谷中の天王寺五重塔が焼けた(男女の放火心中)。
露伴の小説『五重塔』のモデルだった。
関東一高い塔(約35m)だったが、今は礎石だけ残って更地のまま。


“お化け煙突”は当時の下町名物だった。
千住桜木町にあった東京電力火力発電所の4本煙突。
平べったい菱形のレイアウトなので見る方向によって1~4本に変化した。
輪切りにした記念モニュメントが尾竹橋際の帝京科学大学千住キャンパス敷地にある。
お化け煙突 当時の平面図




(※前回記事/2014年8月20日
昭和三十年代は遠すぎる(3)
~ひとびと~


今思うと自分でも「本当かよ?」と思うけど
昔昭和30年前後、いろんな“人”が来た。
ウチは店屋だったから
一般の仕舞屋(しもたや)より敷居が低かったのかも知れない。


たとえば<虚無僧!>。
時代劇かよとツッコミを入れたくなるが
本当にあの格好だった、円筒形の編み笠に尺八。
なにか口上を言う訳ではなく、いきなり尺八を吹き始める。
「結構です」と断ると一礼して何も言わずに去って行った。


似たタイプでは饅頭笠を被った托鉢僧。
喜捨を頼りに諸国を修行して回っているのか、
ただの融通坊主なのか素性は知らない。


古風な本来の三河万歳の二人連れも来た。
いきなり店の前に立ってマンザイを始めるシュールさヨ!
「ボケとツッコミ」のマンザイの原型。
太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)が鼓を打ちながら丁々発止のセリフのやり取り。
古式なセリフなので何を言ってるのか分からない。
たぶん「豊年満作」「家内安全」のめでたいなメデタイナ的な内容。


猿回しも、ちょっとした空地でいきなりやり始めて
人だかりがしてひと通り芸をやってお金が多少集まると撤収してどこかに去って行った。


正月は近所の鳶の親方の若い衆たちが獅子舞とハシゴ乗り。
町内の辻々を回った。
鳶口で四方八方からハシゴを支えて、そこをおニイさんがトントントンと登って行く。
少し傾いたりすると微妙に調節したりする。
上で演技をすると「あ、落ちる!」とハラハラさせられて固唾を呑んで見ていた。


越中富山の置き薬。
同じ人が毎年来て消費した薬を補充して行く。
四角い紙の薬袋が柱に掛けてあった。
風邪とか腹痛とかくらいしか使わなかったと思うがそんなので商売になっていたのか。
子供たちへの景品で紙風船をくれた。


町会から「日掛け」の箱が毎日回って来た。
もしかしたら店屋だけだったかも知れない。
取っ手が付いていて少し長めの長方形。
現金を扱うので小さい南京錠が掛けてある。
小さい間仕切りがあり各戸別のお金の入れ口が開いている。
毎日一定の少額を入れて次の家に回す。
いくらだったかは思い出せない。
確か紙幣(十円札?、五十円札? 百円札?)を畳んで入れたような気がする。
「差し込み用ヘラ」が紐でぶら下がっていた。
ガラスが嵌め込んであり入れたか入れないかが見える。
何のためだったのか。祭礼などの積立費用か。
それとも「無尽」あるいは「頼母子講」というものだったのかも知れない。


上野や浅草の盛り場では「蝦蟇の油」の香具師。
マムシが入っているという袋があって、セリフの端々に匂わせるが
結局最後までマムシは出さなかった。
無毒の蛇に腕を噛ませて蝦蟇の油で治療するケースは見たような記憶がある。
ホクロを取るパフォーマンスもあった。
記憶が混ざっているので、ホクロ取りは別の薬かも。


とにかく今から考えると恐ろしくも隔世の感あり。
善哉、善哉。



(※前回記事/2014年8月10日
昭和三十年代は遠すぎる(2)
大晦日の晩は、元旦から新しく下ろす足袋や下駄を枕元に置いて寝た。


缶に入ったサクマドロップをカラカラ振って残っているか確認。
子供には白いハッカ味は苦手で最後まで残った。最後には食べたけど。


練炭 練炭。
蝿取り紙。蚊帳。
呼び出し電話。
電蓄。
シャンプーは無かった。
当時のトースターって食パンを手で上げた。
七輪、火鉢。
真空管ラジオ。当時のラジオドラマで松島トモ子の『アパートちゃん』なんて知ってる人いないだろな。


小学校の頃、切手コレクションが流行って集めた。


上の歯が抜けたら縁の下に、下の歯は屋根に投げた。
「イイ歯が生えろ」と言いながら。


南米移民の人たちが希望と不安を抱えながらぶらじる丸で出航した。
あるぜんちな丸という船もあった。


当時の自動車は曲がる方の方向指示器が
手信号のように「パタン」と突き出たね。


南極でタロ、ジロのカラフト犬が生きていた。


小学校で外側に砂糖がまぶしてあるグニュグニュしたグミ状の肝油が配られた。
わら半紙を小さく切ったのが皿代りだった。
その後小さなガラス瓶に入ったヤクルトも飲むようになった。


房総半島の先端付近にある母方の田舎へ行く時は両国から内房線のSLで行った。
ホームにいる時汽笛が鳴ると飛び上がる程大きな音だった。
トンネルに入ると窓を一斉に閉めた。
煙突からでる煙は独特の匂い。
着いた先には当時茅葺屋根の家がまだまだあった。
泊ると南京虫に悩まされた。


小学校に上がるか上がらないかの頃、ある日大井町にあった親戚の家に行った。
母の姉にあたる人の家だ。たまに行く親戚訪問だった。
その時は母とワタシと弟の3人で行った。
わが家は乾物屋をやっていて、当時の商店は盆と正月くらいしか休まなかったから
父は他の店員と一緒に店番をしていた。
母はまだ幼児だった弟をネンネコで背負ってワタシの手を引いていた。
乗ったのはチョコレート色の省線電車。
座席に座っていると向かい側に座っていた進駐軍のGIが、
(あの畳むと長方形になるGI帽子をかぶっていた)
手に持っていた“ジェリービーンズ”をワタシにくれようとした。
いかにもアメリカのお菓子で鮮やかにカラフルだった。
ワタシは外国人なるものを見たのは当然初めてで
どうしてよいか分からず、脅えておかーちゃんの方を見た。
母もどうしてよいか分からずとりあえず貰っておくしかないと
「ありがとうと言いなさい」。
仕方なくおずおずとワタシは手を出した。
GIは袋ごとくれた。
ワタシは強張った表情のまま小さく「ありがとう」と言った。
親戚の家に着いてからその事がひとしきり話題になった。



(※前回記事/2014年8月1日
昭和三十年代は遠すぎる
小学校一年入学の時、上履きとしてゾウリ袋にゾウリを入れて持って行った。
草履だよ草履、本物のゾウリ!
ゾウリ時代は短かくてすぐ靴時代になった。


荷馬車が家の前の通りを通っていた。
馬糞が道の真ん中に点々と落ちていた。


小学校の上映会などでスクリーンに数字が「3、2、1」と出た。
みんな大声で「…さん、にい、いち」と声を出したねえ。


ウチにまだテレビが無く、近所の級友の家がテレビを買った。
夜、見せてもらいに行った。
『日真名氏飛び出す』。久松保夫の探偵と高原駿雄の助手の泡手大作。
製薬会社三共の提供で風邪薬“ルル”はこの頃からのロングセラーだ。
「♪ クシャ~ミ3回、ルル3錠」
ウィキペディアで確認すると放送は土曜夜9:10~9:40。
思えば、よその子が夜遅くまで帰らないので迷惑だっただろう。ごめん。


放課後、掃除当番がストーブの石炭ガラを
校庭の隅の置き場に捨てに行った。


オトナが手ぬぐいを腰にぶら下げていたね。


4時間目になると給食調理室からいい匂いが漂った。
食べ残したコッペパンは給食袋に入れて家に持ち帰った。
翌日位になるとかなり固くなった。
風邪などで休むと近所の級友がパンだけ持って来てくれたような記憶もある。


卵やリンゴの保護クッションはモミ殻だった。


小学校の卒業アルバムに教頭先生が『禍を福に転じて知らぬ顔』と
筆で書いたものが載っている。小学生なりに感銘を受けて未だに忘れない。


生れて初めてコーラを飲んだのは中学の運動会の時。
おいしいのかそうでないのか分からなくてとにかく衝撃だった。
液体の咳止め薬に味が似ていた。


ワタシが中学の頃、学校のすぐ近くの京成電鉄の小さな踏切で
映画『下町の太陽(山田洋次監督の2作目)』のロケをしていた。
主演の倍賞千恵子の働いている所が曳舟の石鹸工場という設定。
役名が“寺島町子”…、映画のロケ地の旧町名が寺島町だったからね。



(♪タタ~ミ3枚、部屋3畳…、こんなダジャレ言っても今の若い人には通じない)