普段のズボン(その2) 秀吉の失敗
「世の中スイスイ(粋々)、お茶漬けサクサク…」志ん生、志ん朝の噺に出て来るフレーズ。肩の力が抜けてあんにゃもんにゃです。~長い散歩の途中~
秀吉の失敗
歴史上の人々のあれこれを想像して
「ああでもない、こうでもない」と思いをめぐらすのは甚だ興味深い。
先人の研究家や作家たちが営々と築いて来た考察の海から、
“風雲児秀吉のつまずき”について自分なりに拾い上げて列挙してみる。
(※いろいろな見方のひとつであり、異説も多々ある事は承知しています)



(1)~信長という先行モデルがいなくなった~

秀吉は天下人になるまでは、信長とは別の意味の不世出の異才だったが、
いざ天下人になってしまうと、先行モデルが無いまま停滞してしまった。
当時世界でも有数の勇壮華麗だった大坂城や聚楽第など
建築に対する非凡さなどを含めて、
あれよあれよと天下人に駆け上がる過程では輝いていたのだが…。
攻めのタイプであったが守りのタイプではなかった。
家康のような盤石の体制を作り上げる事も出来ず淀の色香に迷った。
朝鮮出兵なども、深い考えも無く行動を起こした。
信長が見た地球規模の壮大な夢を、ただカタチだけ真似をしただけだ。



(2)~三成を重用し過ぎたのが裏目~

石田三成は主人である秀吉に対する“忠義”だけの人。
忠義が過ぎて却って秀吉自身だけでなく豊臣の家を潰してしまった。
人の器量で見ると秘書課長クラス。
課長の三成が社長の秀吉に、各部長たちのあることないことを吹き込んでいるのを現場の百戦錬磨の部長たちは苦々しく思っている。
朝鮮の戦役でも部長たちが寒さと疲労で困憊しているのに
国内の秀吉の間近でぬくぬくと勝手な事を言っている。
特に加藤清正、福島正則、黒田長政(官兵衛の嫡男)は怒っている。
この三人は“三成憎し”で怒髪天を抜く思いだったから、
秀吉の子飼いにもかかわらず家康にその感情を利用された。
かくして豊臣恩顧の荒大名たちが徳川方に巧妙に取り込まれた。
そうでなければ秀吉の忘れ形見の秀頼に弓を引くような図式が見えない筈がない。
将棋と同じで相手の飛車角のような大駒を自分の手駒にして意のままに使う家康の老練。
天下分け目の関ヶ原合戦も豊臣の諸将を競わせてたった一日で勝った。
徳川主力本隊を預かったわが子の秀忠隊は中山道経由で駆けつける筈だったが、
信州上田の真田親子に手こずって肝心の関ヶ原合戦に間に合わなかった。
大遅刻の大失態。家来の手前もあって家康は大激怒。
勝ったから良かったようなものの、もし負けていたら…、
家康の背筋を冷たい汗が流れた。
利根川の増水で家康の指示がうまく届かなかったから仕方が無かったという説もあるが。
一度レールが敷かれたら荒大名たちも何がなんだか分からないまま家康の手駒のまま。
関ヶ原だけではなく、それから14年後の大坂の陣でも同じ運用を継承。
そのまま徳川方の中で家の存続を図るしか方策が無くなった。



(3)~淀君(お茶々)に耽溺して正室を蔑(ないがし)ろにした~

先にも書いたように天下人に上り詰めるまでの秀吉は
明朗闊達で聡明で人間的魅力に富んでいた。
“人たらし”で座持ちが良く、周囲を明るくしファンを増やしていった。
その非凡な人が、何でも思い通りに手に入るようになると、
“生い立ち”のコンプレックスが頭をもたげて来る。
高貴な人への憧れが押さえられない。
主人信長の妹で手の届かない存在だった別嬪のお市。
お市は夫である柴田勝家と共に越前北ノ庄城で自害して果てた。
娘たち三人は落ちる城から救い出されてその長女がお茶々。
言わば“お嬢”である。母ゆずりの別嬪だった。
秀吉はあの手この手で側室にした。
正室の“おね”は世継ぎを得るためとは言え、我慢を強いられた。
どんどん変わって行く秀吉にもがっかりしただろう。
いつの頃からかもう豊臣の世をあきらめた。
大きな時代のうねりを感じ、徳川の世になるのが避けられない事を悟った。
“おね”の動向・意向は少なからぬ影響力を持っていた。
秀吉死後、“淀派”とおねの“政所派”が形を現わして来た。
これを淀君一派は軽く見ていたのではないか。
“おね”がわが子同然に可愛がった加藤清正、福島正則、黒田長政らを徳川方にそれとなく誘導した。
当然家康は家康で“おね”を優遇して手を回していた。



(4)~一国の政(まつりごと)において“大きな絵を描く”才覚では、秀吉より家康はひと回りもふた回りも上~

戦国の世を終わらせて二百数十年の太平の世をつくったのは家康のもたらした功績。
ただし平和は時計を止める副作用もあるから、
ペリーの黒船来航で外の世界に決定的に遅れを取った事を知る事になる。
ガラパゴス化。
平和という概念に絶対は無く相対的事象に過ぎないとは人類って一体なんざんしょ。
物事はことごとく二律背反。



(5)~秀頼は本当に秀吉の子か?~

関ヶ原合戦の後、家康は豊臣家を一大名として残してもいいかなと思っていた。
ところがある時久し振りに秀頼に対面して
成長して大男(180cmくらい)になっていたのを見て仰天する。
会話をして利発さも感じる。
これはまずい。
こいつを核にして豊臣の残党が集結すると厄介な事になる。
早く潰さねばならない。
「しかしこいつは本当に秀吉の子か?」と家康も疑問に思ったのではないか。
秀吉は猿とか禿げ鼠とか言われた貧相な小男だった。
正室の“おね”にはもちろん、他の側室たちにも子が出来ない。
秀吉には子を生む能力が無かったのではないか。
ところが淀との間に二子出来た。第一子は幼児の時に死亡。
途中もう出来ないと諦め、甥の秀次を関白にした。
その後に第二子の秀頼が生まれたので今度は秀次が邪魔になった。
謀反の疑いを掛けて凄惨な一族皆殺しにした。
これは後々の問題を懸念して小賢しい三成の入れ知恵かも知れん。
秀吉本人も、秀頼がうすうす自分の子ではないと感じていたかも知れない。
いやあるいははっきり理解していたのかも…。
それでも体面が保たれればそれでいいと割り切っていたのか。
あるいは目が曇っていて冷静さが無くなっていたか。
しかもそれらは諸将の間にも密かに噂がささやかれていたかも知れない。
だからこそ大坂の陣で豊臣恩顧の大名たちが家康側の手足になって
主筋を攻めるのにあまり苦しまなかったのではないか。
家康陣営も積極的に風評を流したか。



(6)~弟の秀長が比較的早く病没、ひと月後に利休には死を命じる~

信頼できる片腕の秀長がもう少し長く生きて秀吉を補佐していれば
秀吉はもう少しまともな晩年になっただろう。
「表向き(政治)の事は秀長に、奥向きの事は利休に」という
受持ち分担をしていて一時期うまく機能していた。
秀長は父違いの弟だが実直で温厚な性格で諸大名たちの評判も良かった。
次にまた豊臣政権の重要な支柱でもあった利休との決裂。
金ピカ好きで派手好みの秀吉。渋好みの利休とはいつかぶつかる運命だった。
誇り高く我を通す利休の巍然とした芸術家精神。
性格の違いは埋めようが無い。
しかし死を命じておいてつまり利休がいなくなって、
結果的に一番寂しい思いをしたのは秀吉だった。
周囲から見る秀吉に対する求心力がどんどん失われて行った。



(7)~信頼のナンバー2を作れなかった~

これは仕方が無いかも知れないが“血筋主義”を脱却出来なかった。
現代の国家でも企業でも血の繋がった人に
バトンタッチする例が少なくない事をわれわれは良く知っている。
血筋外の“ナンバー2”を育てるという事は
その人が取って代わって新しい天下を作るという事で
元の血筋は零落するか根絶やしにされる恐れがあるので踏み切れない。
どうしても血筋にすがってしまう。
有能な黒田官兵衛や蒲生氏郷などはその力量ゆえに疎まれて遠ざけられた。
領国を福岡や会津と京大坂から離された。
徳川家康だけは潰せないほどの存在になってしまっていた。
秀吉は織田信雄・徳川家康連合軍と小牧・長久手の戦いをしたが
苦戦してグズグズ講和に逃げた。
以後家康に“苦手意識”を持った。
トラウマになり家康を腫れ物のように扱った。
しかも家康は一応臣従のカタチを崩さないのでインネンを付けられない。
せいぜい三河駿河から江戸という少し遠隔地に移封したのが精一杯。
結局、家康は秀吉が存命中は臣従のカタチを崩さない。
辛抱強く時機到来(秀吉の死)を待っていた。
最終的に家康というナンバー2に乗っ取られてしまった事になる。