普段のズボン(その2) 昭和三十年代は遠すぎる(7)
「世の中スイスイ(粋々)、お茶漬けサクサク…」志ん生、志ん朝の噺に出て来るフレーズ。肩の力が抜けてあんにゃもんにゃです。~長い散歩の途中~
昭和三十年代は遠すぎる(7)
昭和三十年代、そろばん塾に通う小学生が多かった。
ワタシも通った。
日商の珠算検定試験には塾の先生が引率して神保町の専修大学に都電で行った。



三浦洸一(踊子)、白根一男(青春は雲の彼方に)、曽根史朗(若いお巡りさん)、神戸一郎(十代の恋よさようなら)、藤島桓夫(月の法善寺横丁)、青木光一(柿の木坂の家)、若原一郎(おーい中村君)、小坂一也(青春サイクリング)、春日八郎(別れの一本杉)、三橋美智也(哀愁列車)、三波春夫(大利根無情)、コロムビア・ローズ(東京のバスガール)、美空ひばり(港町十三番地)、…。
(※こうやって見ると数字が入った芸名が多い。なにかジンクスでもあったのか)



夜店の灯りはアセチレン・ランプ(カーバイド・ランプ)だった。
独特の匂い。



中学校の数学(「技術・家庭」だったかな)の時間に「計算尺」を習った。
アナログで近似値しか出ないがそれでも充分な道具だった。
魔法のように答が出た。
パソコンはおろか電卓さえなかった時代には極めて便利だ。
映画『博士の異常な愛情』(1964年)で、
国防省作戦室の中のストレンジラブ博士も計算尺を使っていた。
幕張の「宇宙博2014」に行った時もアポロ宇宙船の中で使っていた計算尺が展示してあった。
直線タイプと円形タイプがある。
(ネット検索したら「ヘンミ計算尺株式会社」という日本の会社が1965年当時、日本の98%、世界の70%のシェアだった。現在もその会社は精密機器製造に転換して存続。計算尺自体は1975年に製造終了したが未だ在庫のみ銀座伊東屋で販売されているそうだ)



小学校の当時の運動会では靴でなく“はだし足袋”というのを穿いた。
簡便なものなので一日しかもたない。




ゴルフ場
小学生時代、級友のお父さんが級友と一緒に伊東のゴルフ場に連れて行ってくれた。
その人は町工場の社長だった。
もちろんワタシたち子供は付いて回るだけ。
途中、列車の窓を開けて駅弁を買ってくれた。
ついでに小さな土瓶に入ったお茶も。
あのちっちゃな土瓶は、「峠の釜飯」の土釜と同じように可愛くて捨てにくい。
あれもいつの間にかプラスチックの急須になった。
今はペットボトル全盛で、もうプラ急須も無いだろう。
弁当の蓋の経木に付いたご飯粒はもちろん剥がして食べた。
似ている食べ方はカステラの下に付いている半透明の紙。
そこに付いている甘いカラメル状のものを歯でこそげ落して食べる。
上品とは言えないがあそこがウマイんだからしょうがない。



乾物屋をしていた父が卵を数える時や穀物を升で量る時の数の数え方。
「ひとひとひとよ、おーふたおーふた、おーみちょおーみっちょ、おーよっつだおーよっつ、…、…、とーいッとな」

昭和34年頃だったと思う、住まい兼店舗の自宅を建て替えて
改めて開店セールをしたが、その時はチンドン屋を頼んだ。



ジャンケンの“掛け声”問題。
“ジャン、ケン、ポン”が一番ノーマルだろうけど、
ワタシたちが子供の頃の東京の東部のジャンケンでの掛け声は
“チッ、ケッ、タ”または“チー、ラッ、セ”だった。
女の子たちは“ジャンケン、じゃがいも、北海道”。
アイコだと“北海道、北海道、北海道…”と続いた。
“最初はグー”などという掛け声は影も形も無かったから、昨今のは違和感あり過ぎだ。
今やほぼ百%この掛け声が行われているようで、いやだなあ。
出所はドリフの番組で志村けんがやり始めて全国を席巻してしまったようだ。



シャープ兄弟、ルー・テーズ、ジェス・オルテガ、ボボ・ブラジル、ラッキー・シモノビッチ、キラー・コワルスキー、バッドニュース・アレン、沖識名(レフェリー)、…。



昭和34年の伊勢湾台風では死者・行方不明が5,000名超だった。



今でもアナウンサーが、「思い出が“走馬灯”のように蘇る…」などと言うが、
今の若い人に“走馬灯”が通じるのだろうか。



三木鮎郎がやっていた『スター千一夜』というTV番組に
先代中村勘三郎(十七代目)が出ていて、インタビューをいろいろ受けている間に
まだ幼児だった勘九郎が飽きちゃってスタジオのあちこちを動き回っていて、
親の勘三郎が目を細めていた。
その勘九郎が勘三郎(十八代目)になり歌舞伎界を引っ張る存在として縦横無尽だったが、
志半ばに逝ってしまった。